10. 原理講論に記されている主体と対象に関する一説
2025.07.01
原理講論の「愛と美」には、次のように記されています。
「神と人間について例をとれば、神は愛の主体であり、人間は美の対象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の対象である。被造世界においては、人間は愛の主体となり、万物世界は美の対象となるのである。しかし、主体と対象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。なぜかといえば、主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができるからである。」
まず、「主体と対象とが互いに回転して一体となる」という表現に引っかかります。これをどう解釈すべきでしょうか。信仰の理論として、「そう信じましょう」と割り切るべきでしょうか。ですが、今回は、これに関する事ではなく、「一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができる」という記述に関して考えてみたいと思います。
原子の場合はどうでしょうか。上の記述に当てはめてみると、「原子核も電子の立場に、電子も原子核の立場に立つことができる」ということになります。ですが、それは不可能なことです。また、2個の水素原子が結合して、水素分子となった場合はどうでしょうか。この場合、「主体と対象」を定めることができません。何故なら、同じ水素原子同士では、上下関係などないからです。このように、原子や分子の場合においては、上記の原理講論の説が成立しません。
さらに、その説によれば、「人間も万物世界の立場に、万物世界も人間の立場に立つことができる」ということになりますが、それは一体どういうことでしょうか。そもそも想定すること自体が困難です。
結論を言えば、「一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができる」という原理講論の説は、想定できない事例があるため、普遍的なものではない、ということになります。
原理講論とはどのようなものであるのか。それを知りたい方は、次の動画をご覧ください。
既に気付いた方もおられると思いますが、原理講論では、「同格の存在」を想定していません。ですが、実際には、同格のものは存在します。従って、原理講論のように、全ての存在を「主体と対象」で捉えるなら、普遍の真理とはなり得ません。
原理原本には、「主体と対象」という表記がありません。そこでは、相対(あいたい)する二者を「中心と対象」としています。ここで「中心」というのは、視点を意味しているのであって、「主体」のように、上の立場であることを意味しているのではありません。従って、「中心と対象」は、上下関係であっても、同格の関係であっても、適用することができます。
原理原本を「蘇生級の原理」だと思っている食口が多いと思います。何故なら、教会で、そのように教えてきたからです。ですが、それは基本的に天からの啓示です。下記のサイトをご覧になり、ご自身の目で確かめてください。