8 聖書は原理を直接教示できない

8-1 人が未完成であることは神様だけが知っていた

神様がモーセに創世記を教示された時、何故、神様は本当のことを明かされなかったのか。それは、その時に、明かせない理由があったからである。元々、アダムとエバも、神様のことをよく知らなかった。つまり、アダムとエバは、神様のみこころをよく知らずに堕落したのである。

それゆえ、神様は、モーセを立て、堕落の無い理想世界を取り戻そうとされたのである。しかし、モーセは、アダムとエバが未完成であったことを知らなかった。それは、アダムとエバに対するみ旨が、モーセから非常に離れたところにあったからである。そして、そのみ旨は、次のアダムとエバが果たすべきことであった。それゆえ、モーセには、そのみ旨に関する堕落原理を明かさなかったのである。

そのみ旨とは、アダムとエバが完成することであり、それは、二人の責任分担であった。しかし、二人は完成していなかったのである。この事実は、神様だけがご存知であった。つまり、アダム自身もエバ自身も、さらには、サタンでさえも、この事実を知らなかったのである。

それゆえ、神様は、人を完成させなければならない。そのため、人が、堕落する前の立場に立つことができるように、まず世界を復帰した上で、神様ご自身が、そのみ旨を実践されるのである。従って、そのみ旨を成就することのできる時代になれば、アダムとエバよりも天的な、完成した存在が現れなければならない。そのような存在が現れてこそ、そのみ旨を成就することができるのである。

原理的に見れば、モーセの時には、まだ、次のアダムとエバが決まっていなかった。従って、その存在のことを、モーセに教示することができなかったのである。


8-2 今は原理が明かされる時である

神様は、原理的な存在となり得る人物を立てなければならない。それは、人々を原理的に救援するためである。我々を愛する神様が、確かではない聖書によって、我々を救援しようとされるだろうか。神様は、原理通りに、人を取り戻そうとされる。そうしてこそ、創造理想が完成するのである。

イエスが人々に比喩で教示されたのは、その時、原理を明かすことのできる時期ではなかったからである。しかし、その原理は、再臨主が現れた時に、明かされることになる。それゆえ、ヨハネによる福音書16章25節に記されている通り、「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」と言われたのである。また、ヨハネによる福音書16章12節に、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」と記されているのは、その当時は、まだ、事実通りに話すことのできる状況ではなかったからである。しかし、事実通りに話すことのできる時が既に来たことを知らなければならない。

ヨハネによる福音書16章13節から14節には、「けれども真理の御霊みたまが来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」と記されている。これは、比喩では表現することのできない、未来に残されたみ旨があるということなのである。

このように、将来において、真理が明かされると言われたのは、ある期間を経た上で、成就すべきみ旨があるからである。そして、そのみ旨を成就すべき時が来たため、真理が明かされるというみ言は、その通りになった。つまり、終わりの日となったため、聖書では明かされていないこと、即ち、「あなたがたは今はそれに堪えられない」と言われたその部分が明らかにされたのである。従って、その真理、即ち、原理が発表されなければならない。それは、普通の信徒には堪えられないものであるが、導かれた者には堪えられるものである。

み旨の路程には、聞くに堪えられない部分があるということを、イエスは、み言を通して伝えたのである。それゆえ、導かれた者だけが、主の新婦となり、主に仕える者となることができる。


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