7 自分を知ることで神様が分かる
7-1 まず自分を知るべきである
神様は如何なる存在であるのか。多くの人々が、それを知ろうとしている。それを知ることによって、天宙の全てを完全に理解しようとしているのである。人も万物も、神様によって創造されたが、多くの人々は、その神様がどのように生まれ、その前には何があったのかと尋ねる。しかし、そのような事よりも、まず、自分が如何なる存在なのかを知らなければならない。それを知り、自分の問題を解いてこそ、神様の問題に移ることができる。
自分のことを知らずに、神様のことを知ろうとするのは、公式の単位を構成する各要素の意味を知らずに、答えだけを知ろうとしているようなものである。つまり、単位を持つ各要素の意味を知ってこそ、公式を応用することができ、さらに多くの基本公式と連結することができる。こうして、構成された公式は、明確な意味を持つようになるのである。
人は、公式の要素のような立場にあるため、それぞれの存在位置は、あらかじめ決定されているのである。それゆえ、自分の存在位置が分かれば、互いに影響を及ぼす他の存在を把握することができる。しかし、それ以前に、自分の存在位置が、そこに有るのか無いのかということを知らなければならない。
また、自分が存在するならば、何によって、それを知ることができるのか。良心によってなのか、感覚によってなのか、体によってなのか。このような事から問題は始まるのである。しかし、何かが有るとすれば、何を基準として有るとするのか。このような問題を深く考えてみなければならない。
7-2 有無の基準は人によって異なる
人は、有と無の分岐点を、何によって決めているのか。それが重要な問題である。有があれば、それに相対する無を連想するのであるが、人々が有だとするものは、何を基準としているのであり、その有を、どの程度にまで拡大しようとするのか。また、それとは反対に、無だとしても、その無を、どの程度に規定しようとするのか。ある実体を無だとするならば、その基準があるべきではないだろうか。つまり、人々は、既に存在するものに対して、有無を決めているのである。それゆえ、自分が存在するということは、有と無の自分が存在するということになる。
このように、人は、何らかの基準をもって有無を決定しているが、その基準は、人によって異なるのである。しかし、有無を決定した本人にとっては、その決定が正しいと言える。そのため、自分で物事を考えず、他者を気にするならば、どのように物事を判断すべきなのか分からなくなる。つまり、有無の基準は、無限有と無限無の中間にあり、絶対的なものとしては定められていないのである。人々は、この事実を明確に理解しなければならない。こうして自分が存在していると思えるのは、自分自身の基準で認識することができるからである。
人が、ある存在を有と決定すれば、それは、無を決定することにもなる。ところで、その無は、どの程度の無を意味するのか。それが重要な問題である。つまり、その無は、我々には見えない程度なのか。または、感覚が無くなる程度なのか。或いは、形を構成することができない程度なのか。ここで明らかなことは、人は存在を認識できれば有と判断し、そうでなければ無と判断するということである。
しかし、自分自身が持っている有無の基準によって、ある存在を無であると判断しても、その存在が無いとは言えない。何故なら、その無は、無限無(無の極限値)ではなく、有と関連を持つことのできる連続した存在でありながらも、その人が認識できずに判断した結果だからである。従って、この無というのは、認識できない領域のどこかにある存在だということになる。
また、自分を有として、それを「1」という数字で表せば、無であることを「0」と表すことができる。しかし、この「0」というのは、実際に無いという意味ではなく、無を抽象的に表現しているのである。つまり、この無を無限無であると限定することはできないため、厳密には、その無を「0」と表すことはできない。従って、数字の「0」というのは、理論上の「0」であると言うことができる。そのため、理論上の「0」と実際の「0」は異なっている。つまり、実際の「0」というのは、有よりも小さく、無限無よりも大きいものである。
有無の境界は、無限有への始まりであり、無限無への始まりでもある。自分自身をよく知ろうとすれば、この事をよく理解しなければならない。つまり、有無の境界においては、「1」と「0」が同一となる。従って、自分は、最小の有を知る「1」という存在でありながら、最大の無を知る「0」という存在でもあると言える。これが、自分という一人の存在なのである。
有無の基準は人によって異なる
(例として可聴領域や可視領域にも個人差がある)
7-3 人は有と無の中間存在である
自分が存在しているならば、まず、自分の価値を全て知るべきではないだろうか。つまり、無限有と無限無の問題よりも、その中間に存在している自分の価値を知ることのほうが、さらに重要である。
このように、中間に存在している自分を知ろうとすれば、無限有と無限無の中間の存在とは、どのような存在であるのかということを知らなければならない。その上で、自分という存在を明確にすることができるのであり、自分より大きな存在を理解することができるのである。
人々は、自分が存在していると思っているが、事実は、有でもあり無でもある。この無というのは、数字では「0」となるため、絶対無であるかのように考えるかも知れないが、そうではない。たとえ自分が無限無の立場に立って、「自分は存在しない」と言ったとしても、それは、自分を認識しているということであるため、結局は、自分が存在しているということになる。従って、「無であるなら存在しない」と考えるのは、愚かな事である。つまり、人は、有でもあり無でもある存在だということになる。それゆえ、人は、無限有から無限無にまで通じることができる。それが、人の価値である。
7-4 有無の境界で神様を知ることができる
ここで、一番大きな問題となるのは、有無の境界に関することである。何故なら、有としての自分がいると同時に、無としての自分がいなければならないからである。この問題が解けてこそ、他の存在を理解することができ、より大きな事実を認識することができる。
つまり、自分一人のことが分かれば、神様が存在するのかどうかについては、大きく論じる問題でもないということが分かる。従って、神様の存在に関する根拠を知ろうとする前に、自分に関して知ろうとすべきである。このように探究していけば、神様が確実に居られるということを、自然に意識することができるようになる。何故なら、神様は、絶対有から絶対無までの基本存在であり、どこにでも居られるため、その存在を自然に体感できるからである。その体感によって、神様の存在に対する根本問題を確実に解決することができる。
このように、神様を感じることができるのは、無限有から無限無の間に力が存在するからである。その力は、公式のような原理によって生じるものであり、各自が、それぞれの位置で、その力を感じることができる。つまり、有無の境界に立つことができれば、自分だけが、その位置の力に感応することができるのである。
7-5 肉身と霊人が一つになってこそ完全な人となる
神様は無から有へと作用し、人は有から無へと作用する。このような授受作用を完全に成してこそ、人は完全な存在となる。こうして、人は、有と無の中間存在として完成しなければならない。これが、天理であり創造原理である。
神様は、人を通してのみ、天宙が完成するように創造された。それゆえ、人は、神様の体であるという特有な存在となっている。
人は、一つの単位として、有無の境界に立つことができれば、有でもあり無でもあるという存在となる。それは、つまり、肉身と霊人が一つになってこそ、完全な人になるということである。従って、我々は、霊人を成長させ、完成させなければならない。そうすれば、無の世界に通じる存在となるのである。
肉身と霊人が完全に授受して一つになってこそ完全な人となる
7-6 イエスと再臨主によって霊人が完成する
肉身に肉心と肉体があるように、霊人には生心と霊人体がある。その霊人体の霊体が成長して完成し、さらに生命体も完成すれば、その上に
ところが、人は堕落し、生心による良心作用が弱くなったため、霊人を成長させることが難しくなってしまった。このような人の霊人を成長させ、生命体にすることを目的とした神様の摂理が、イエスによって、信仰生活を育成することであった。
こうして、神様は、イエスによって、人々の生命体を完成させ、その上に生霊体を与えようとされたが、人々がイエスを不信したために、生霊体を与えることができなかった。それゆえ、その目的は、再臨の時まで残されることになったのである。
もし、人が堕落しなかったならば、生心が肉身を主管しながら、肉身が完成し、それと同時に、霊人が完成していたのである。しかし、人が堕落することによって、全ての人の霊人を、段階的に完成させざるを得なくなった。つまり、長成段階においては、イエスの生命要素によって、生命体が完成し、次の完成段階において、再臨主が人々に生霊体を注入することによって、理想の霊人体が構成されるのである。
結局、旧約の摂理は、その目的を果たすための基礎となったのであり、新約の摂理では、その基礎の上で成長させ、さらに世界的な基礎を築いたのであり、完成段階では、生霊体を地と共に天にまで繁殖させ、理想の天宙を完成させるのである。もし、人々が、旧約時代から神様のみ旨に従っていれば、その時に、生霊体の理想を展開していたのである。しかし、人々の不信によって、その目的を果たすことができなかった。そのため、再臨主による人類の救援が、み旨として残されたのである。従って、神様の救援摂理とは、人々を取り戻して、霊人を完成させ、本来の創造理想を成就することである。
7-7 人は神様と同一線上の存在
神様は、絶対有の存在であると同時に、絶対無の存在でもある。このように、神様は、究極の存在であるため、人は、究極を求めれば求めるほど、神様が必要であることを切実に感じるようになる。また、万象の中心は神様であるため、どこを通って行っても、結局、神様に行き着くようになっている。そこで、全てが、同一の基本原理によって作用していることを理解し、さらに、その原理によって、自分自身の路程を探し出すことができれば、神様に関することは、自然に分かるようになり、神様が全ての根本であることを実感できるようになる。こうして、全ての人が、神様を知るようになれば、全体的な問題は解決されるのである。
自分自身が存在するのは、根本的な神様が存在するからである。従って、「神様はいない」と言えば、「自分はいない」と言っているようなものである。自分が存在する前には、父母が存在し、祖父母が存在する。これが、数十代、数百代と続いているのである。つまり、何らかの存在があってこそ、次の存在が生み出されるのであり、存在しないものからは、何も生み出されない。このような天理を離れることはできないのである。
自分の後には、自分の子孫が存在し得るため、今、子孫がいなくても、子孫が存在しないと言うことはできない。もし、子孫が存在しないと言うのであれば、それは、完成した存在になっていないということである。原理的に見れば、子孫が必要であるため、子孫を持つことができるように創造されたのである。従って、子孫を否定すれば、自分自身を否定するだけではなく、原理自体も否定することになる。このように否定することで、何かが解決されるだろうか。そうでないことは、誰にでも理解できるのである。
それでも存在しないと言って否定するのであれば、その人は、神様に反逆していると言わざるを得ない。原理的に、全ては神様が創造されたのであり、神様が存在してこそ、原理が成立するのである。もし、神様が存在しないとすれば、何も存在しないという結論になる。
人は、有無の中間存在でありながら、有の存在を目的として行動している。それは、生活の中で、既によく経験していることである。その反面、無の存在を対象とする場合には、自分でそれを存在するものとしなければならない。このように、有と無の存在を対象とすることができるのは、人が有に属していると同時に、無にも属しているからである。従って、有無の根本である神様の存在に疑いを持つということは、自分の存在に疑いを持つということにもなるのである。つまり、原理的に、人が有無の中間存在であるということは、神様と同一線上の存在だということになる。人に神性があるのは、そのためである。それゆえ、人は、有から無の世界に展開される路程を、通ることができるようになっているのである。
7-8 科学は無の存在を明らかにできない
人は、認識できる存在を有とし、認識できない存在を無としている。それゆえ、科学は、認識できる有に対して理論を展開し、その目的を達成しようとするのである。つまり、科学によっては、認識できない無の存在を明らかにすることはできないのである。従って、唯物論的な考え方では、無の存在を理解することができない。それを理解するためには、認識できないものが存在しているという前提が必要である。そして、無を決定するのは、有と無の中間存在、即ち、人であるため、結局、全ての存在は、有と無の根本となる存在、即ち、神様から始まったということになるのである。
7-9 人は神様を感じることができる
どのような作用にも、その根本となるものが存在する。その存在による作用が認識できるもの、即ち、有であれば、それは感覚として、人に影響を及ぼすものとなる。しかし、その作用が認識できないもの、即ち、無であれば、それは感覚外に存在しているということになる。このように、人が感じる作用は、ある存在によるものである。我々は、神様を直接認識することはできないが、良心作用によって、神様が我々に作用しているという感覚を得ているのである。
我々は、有と無の中間存在であるため、無我の境地を求めていけば、自分が陰陽に分立されるような作用を起こす。そして、無であったところを認識できるようになれば、神様の力を感じるようになる。その力の作用は、神様を感じるほど、強くなるのである。これは、修養中に、よく体験することである。また、静かな所を訪ねれば、不思議な感覚を得ることもある。このような経験によって、より高い理想に目覚め、満足感を得ることができる。それは、その理想が、神様に属するもので、喜びのために展開されているからである。
また、我々は、様々な波動の中にいるため、波動に対する感性が鈍くなっている。そのため、神様から伝わってくる波動を敏感に感じることができない。それゆえ、有無の境界となり得る静かな所を求め、そこで修養や祈祷をすることによって、その波動に対する感性を高めようとするのである。こうして、無我の境地に至れば、神様の存在を実感すると同時に、神様の力が自分に作用し、その感覚によって、神様とつながっているということが分かるのである。
従って、仏教でいう無我の境地を求めることにも一理ある。また、科学の公式も、間接的に、その境地を表している。このように、無我の境地を求めるようになったのは、人間が堕落性を持ったからである。
もし、物事を深く悟ることができたとすれば、それは、神様からの波動を感じ取ったということである。人が、夢の中で真理を知り、また、未来のことが分かるのは、感覚が敏感になる就寝中に、神様からの波動を感じることができるようになるからである。このように、夢によって知らされるのである。
神様は、万物の創造主であり、原理の根本であり、全ての事象の中心である。もし、人の霊人が成長し、神様と直接通じるようになれば、人は万物を直接主管することができるようになる。また、万物は神様を現すものであるため、それらによっても、神様を知ることができるのである。
7-10 神様はどこにでも居られる
神様は、有無の根本である。そのため、神様は、有の位置にも無の位置にも居られるのである。従って、有から有無の境界を通過し、無に向かっていけば、そこにも神様が居られるのである。これは、血液に例えることができる。血液は、心臓から動脈を通って毛細血管に至ると、そこから静脈を通って、また心臓に戻るようになっている。神様も、動脈と静脈のような、有と無の回路を持って、存在しているのである。つまり、血液が体全体を回っているように、神様はどこにでも居られるのである。
7-11 真の自由世界では時間や空間に拘束されない
人は、霊によって、有から無へと通じることができる。その霊は、感覚内の有に属しておらず、感覚外の無に属しているが、肉体によって、有へと自由に通じることのできる特有の存在である。この性質は、神様の性質であり、神様が人に与えてくださった特別なものである。それゆえ、我々の理想世界は、真の自由世界であると言える。つまり、距離や空間に拘束されず、時間にも拘束されない世界であり、考えると同時に結果が現れる世界である。これが、神様を中心とする世界である。

