6 創造原理と堕落原理
6-1 神様は愛の理想を実現しようとされた
神様が人を創造されたのは、中和的なご自身を二性に分立して、この上ない愛の理想を実現しようとされたからである。また、被造世界を美化するために、万物も同様に創造され、万物にも愛の理想が現れるようにされた。人は、このような万物から刺激を受け、さらに愛が高められることによって、どのような万物にも見られない最高の愛を交わすことができるように創造された。つまり、人の愛は、万物には無い性質を持っているのである。
人は、このような愛を持たなければならなかったが、堕落性を持ったために、それを成すことができなかった。本来は、神様が人を通して万物を愛することによって、美的世界を成し、全天宙が調和して一体となり、喜楽を共にするようになっていた。それゆえ、天でも地でも、神様の愛を思い慕うのである。このように、神様の愛は、最高の理想であり、人だけではなく、万物や天使においても、喜楽と幸福と満足の中心であり、生命の根本となっている。それゆえ、神様の愛を多く受けることが、全ての存在の望みなのである。
6-2 愛の問題によって善悪の境界が生じた
本来、人間世界には、善悪の境界があってはならなかった。しかし、愛の問題によって、後に、その境界が生じたのである。善の世界である天国は、神様の愛の圏内であり、悪の世界である地獄は、神様の愛の圏外であるが、元から、このような天国や地獄があったのではない。これは、堕落がもたらした結果なのである。また、悪の世界は、生命の根本である神様の愛から離れているため、たとえ地上であっても、死の世界だと言わざるを得ない。
6-3 失楽園の物語の真相
それでは、人間の堕落の原因と悪の起源、および、悪に対する神様の姿勢などを、聖書を見ながら明らかにしよう。
創世記は、モーセによって記録されたが、その中の失楽園の物語は、事実通りに教示されたものではなかった。つまり、それは文字通りではなく、その事実は未来に明かされるものとして、その時は秘密だったのである。たとえ、その事実を明らかにしていたとしても、その当時の人々には、信じられない事であった。
失楽園の物語に記述されている堕落の根本、即ち、「善悪を知る木の実」は、神様が創造されたものである。人がそれを食べて堕落したということは、あまりにもよく知られている。しかし、その物語の核心は、人がそれを食べたということよりも、ヘビがエバを誘惑したということである。
もし、「善悪を知る木の実」を食べて堕落したということが事実だとするならば、大きな難問を抱えることになる。実際に、それが人々の間で大きな問題となっていた。その問題とは、「神様には能力があり、神様は全てをご存知であり、神様が居られない所は無いというのに、何故、人が堕落するように、そのようなものを置かれたのか」ということである。しかし結局、話の焦点となるのは、「神様は愛であると言うが、根本的に堕落するように創造しておきながら、善い行いをしなさいとは、どういう事なのか」ということである。
悪の根源はサタンであり、その存在が天使長のルーシェル(これは韓国語由来の呼び方であり一般的にはルシファー)であったということは、誰もが知っていることである。では何故、神様は、天使長が逆賊のサタンとなり得るように創造されたのか。また何故、そのような天使長を主管することができなかったのか。これらの問題は、非常に重要である。
創世記3章1節には、「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、ヘビが最も狡猾であった。ヘビは女に言った。『園にあるどの実からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか』」と記されている。このようにヘビが尋ねて、エバを堕落させようとしたのが始まりである。そのヘビにサタンが入ったという記述が無いため、そのヘビはサタンであったということが分かる。つまり、サタンをヘビと表現したのである。従って、ヘビはサタンであり、サタンはルーシェルである。誘惑する者を、ヘビという名詞を使って表したのであり、それ自体がヘビだということではない。
ところが、今の信徒たちは、エバを誘惑した存在が、本当にヘビだと思っている。しかし、そのヘビという動物には、最初から、人を堕落させる権限など無かった。何故なら、人は、万物を主管するように創造されていたからである。サタンは、それを知っていたはずである。従って、そのようなヘビを使って、エバを誘惑しようとは思わなかったであろう。人を誘惑しようとすれば、もっと格の高い存在が必要である。それは、常識的に考えても分かることではないだろうか。今まで、そのような事を明確にすることができなかったのは、神様の原理や摂理が明かされてこなかったからである。
しかし、それが明かされる時となった。今まで明かされてこなかった創造原理と堕落原理が明かされてこそ、神様のみ旨が成就される時期になったということが分かるのであり、また、今まで、この世を取り戻そうとしてこられた神様の摂理の根本が、神様の愛であったということが分かるのである。今こうして、神様の愛を必要とする終末という時代に到達したため、神様の原理や摂理の内容を、何としても全天宙に発表しなければならないのである。
6-4 天使の役割
無形世界に居られる神様は、初めに、天使などを創造された。その後、天の無形世界の影として、有形実体世界の創造を始められた。有形実体世界を創造される前に、天使を創造されたのは、有形実体世界の創造を手伝わせるためであり、また、報告や連絡をさせるためであった。そのような天使たちの中心、即ち、天使長が、逆賊の道を行くことになるルーシェルであった。
天使たちは、神様の理想を展開しようとする有形実体世界において、み旨を手伝う存在でもあった。こうして、有形実体世界の理想が実現するときに、天使世界にも理想が付与されるようになっていた。しかし、天使たちは、このような神様の創造の根本意義を知らなかったのである。
有形実体世界が、神様の理想通りに実現されることによって、神様はもちろん、天使たちまでも喜び、全天宙が喜びに満たされるはずであった。しかし、この目的が達成される前に、堕落という不本意な出来事が起こってしまったのである。これは、ルーシェルの行動によるものであった。この行動こそが、人間の苦悩の始まりとなり、地獄の始まりとなり、罪の始まりとなったのである。
6-5 個性真理体とは
神様が人と万物を創造されたその本意は、ご自身の形態と性質を展開することであった。このように創造された全てのものは、個性真理体となるのである。それゆえ、個性真理体には、根本真理体である神様の形態と性質が十分に現れていなければならない。
神様は、真理の根本であるため、唯一であり、永遠であり、不変の存在である。それゆえ、人や万物にも、真理の三大要素である唯一性、永遠性、不変性が備わっていなければならない。そうであってこそ、理想的な生存形態が保障されるのである。そのために、神様は、人と万物を個性真理体として、ご自身の形態と性質が現れるように創造されたのであり、蘇生、長成、完成という段階的な成長期間を経るようにされたのである。
つまり、まとめると次のようになる。個性真理体は、蘇生、長成、完成という期間を通過しなければならない。また、個性真理体には、唯一性、永遠性、不変性が備わっていなければならない。このような存在であってこそ善に属し、理想的な存在だと言えるのである。
6-6 み言による創造とは
ヨハネによる福音書1章2節から3節には、「この
創造には、ある期間を要した。この期間は、み言の中にある神様の理想のかたちを、そのまま実体として展開する期間であったため、み言によって創造されたと表現したのである。このように、み言の中心目的は、神様の理想を実体として実現することであった。従って、み言が実現されるところには、神様の理想が展開されるのである。
み言によって創造されたということは、被造物が神様の形態と性質を持っているということであり、さらに、相対性と陰陽性を示すということである。
以上が、み言の意味である。これは、今まで理解できなかったことであるが、創造原理で解いてみると、何も難しいことではない。
6-7 創造期間について
創世記1章を見れば、万物が神様のみ言通りに創造されていたことが分かる。神様は、その万物を見て「良し」とされ、夕から朝になると「何日目」だとされた。このような内容が、何度も繰り返されているのである。ところで、この世では、夕から朝になれば2日目である。それを何故1日目とされたのか。それには、大きな意味がある。
神様は、創造を終えるごとに、その万物を見て「良し」とされた。それゆえ、夕とは、神様がその万物の創造を終えられたことを意味し、その夕から朝までの間は、蘇生から長成を経て完成に至るまでの期間を意味するのである。そのため、その期間を規定することはできない。また、朝は、一晩おいてから来るのであるが、この朝とは、万物が完成し、新しく出発するということを意味する。
従って、どのような万物でも、夜の期間を経なければならなかった。では、この夜の期間とは何であるのか。万物が、個性真理体として、永遠、不変でありながら、神様の理想のかたちを現すことのできる存在となり得るのかどうか。それを確認するための試験期間が、夜の期間であった。この試験結果が、神様のみ
ところで、創世記1章27節を見れば、6日目に創造された人については、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と記されている。つまり、前述した通り、神様の中には、男性と女性の二性が存在していたのである。
人は、万物を主管することのできる存在として創造されたため、万物が通過した共通過程を、全て完璧に通過しなければならなかった。そのため、人にも、夕を終えた後に、夜という試験期間があったのであり、この試験期間を通過した朝から、神様は、人に、全ての万物を主管することのできる資格を与えようとされたのである。
しかし、人は、このような夜の期間に、サタンの誘惑を受けたのである。人にとって、この夜が、どのような期間であったのかと言うと、少年の時期を終えて、さらに成長し、成熟するまでの期間、つまり、理想的な愛を成すことのできる人格を完成させるための期間であった。
6-8 人は完成する前に堕落した
創世記1章31節に、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった」と記されている。これは、万物全体に対して言われたのであり、人に対して言われたのではなかった。つまり、人はその時、完成していなかったのである。
神様が人に万物を主管させようとされた目的は、神様の理想を実現するためであった。では、全ての万物を主管することになっていたアダムとエバは、その権限をどこから得るべきであったのか。それは、もちろん、神様からであった。神様は、アダムとエバを万物の主人格として、ご自身を象徴させようとされたのである。つまり、アダムとエバは、神様の体であった。しかし、彼らが堕落したため、万物は本来の主人を失ってしまったのである。
6-9 どのように堕落したのか
アダムとエバが創造される前、天使長であるルーシェルは、神様の議論の相手として、神様の愛を直接受けていた。それゆえ、無形世界の天使たちは、ルーシェルを通して、神様の愛を受けていたのである。神様の愛は、彼らの生命の根本であり、幸福の要素であった。
天使たちは、有形実体世界の創造を手伝っていた。神様が有形実体世界の創造を始められたのは、無形のご自身を、有形実体世界に展開し、繁殖させようとする目的があったからである。しかし、ルーシェルは、その神様の目的を知らなかった。そのため、天使たちも、それを知らなかったのである。こうして、その目的は、人々にも知られることなく、今まで隠されてきたのである。
有形実体世界に万物が創造された時、神様は喜ばれ、ルーシェルも喜んだ。さらに、神様は、万物の主人格であるアダムとエバを創造され、彼らを愛するようになった。それでも神様は、それ以前と同様にルーシェルを愛していたのであり、また、ルーシェルへの対応をおろそかにしたのではなかった。しかし、ルーシェルは、それに満足していたのではなく、アダムとエバが神様の愛を受けることによって、むしろ自分に対する神様の愛が減少したと感じた。そのため、ルーシェルは、二度とこのような思いをしないように、人が受けている神様の愛までも、自分のものにしようとしたのである。その時、神様は、エバをこの上なく愛しておられたが、ルーシェルは、そのエバを神様から奪って自分のものにしようと、まだ成熟していなかったエバを誘惑したのである。
ルーシェルは、エバの貞操を奪おうとした時に、恐怖心を抱いていた。何故なら、その行為が、神様に許されるはずがなかったからである。しかし、ルーシェルは、その恐怖心を抱いたまま、エバの貞操を奪ってしまった。エバは、ルーシェルから知恵を得ると同時に、ルーシェルと同じように恐怖心を抱くようになった。
エバは、未成熟であったが、ルーシェルから知恵を得たために、自分の夫となるべき相手が、アダムであることを知った。それゆえ、エバは、アダムのところに行って、愛を強要したのである。アダムは、その時、エバが何故そのような事をするのか分からなかった。しかし、エバの強い要求を避けることができず、それに応じてしまったのである。その時、エバと同じ恐怖心がアダムにも生じたため、二人が神様の法理から脱線したということが分かった。そのため、アダムとエバは、イチジクの葉で罪を犯した部分を覆い、木の間に隠れたのである。以上が、アダムとエバの堕落の経緯である。
では、アダムとエバは、体のどの部分で罪を犯したのか。もし、手で取って、口で食べたことが罪となったならば、手や口を覆ったはずである。しかし、腰をイチジクの葉で覆ったということは、その部分で罪を犯したということになる。つまり、神様に対して、その部分を恥ずかしく思ったのである。
もし、エバが、天のみ
6-10 善悪を知る木の実とは
創世記2章9節には、命の木と善悪を知る木があったとされている。それらは何を表しているのかと言えば、命の木はアダム、善悪を知る木はエバを表している。
では、善悪を知る木の実というのは何を表しているのか。それは、エバの愛を表している。もし、エバが成熟し、神様の愛、即ち、アダムの愛を初めに受けていたならば、エバの愛が善の実となり、エバが善なる行動をとることによって、それが永遠の善となるはずであった。しかし、それとは反対に、ルーシェルによって、エバの愛が悪の実となったため、エバは悪なる行動をとってしまった。このように、エバの愛が、善の実となるか、悪の実となるかによって、その後の路程が左右されるようになっていたのである。
エバの愛を表す善悪を知る木の実というのは、つまり、種を意味する。エバの愛の中にあったその種が、善の種ではなく、悪の種となってしまったのである。このようにしてしまったエバの行動を、誰が嘆息しないであろうか。今まで、女性が束縛されてきたのは、それが原因となっていたのである。女性が、この束縛から開放され、男女が平等になる時期が来れば、それは、再臨の時が近づいているということである。
6-11 三位一体とは
キリスト教でいう
ヨハネによる福音書8章44節に、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と記されている。イエスは、不信仰、不従順、不奉仕なる者に対して、そのように言われたのである。このみ言は、堕落の原因となった者が、サタンであることを明らかにしている。従って、ヘビがサタンであるということを、はっきりと知らなければならない。我々は、今、怨讐サタンの懐の中にいるのである。従って、本当の父、即ち、神様を探し求めていかなければならない。
6-12 イエスは第二アダム
アダムに注入しておいた神様の霊、つまり、生心を中心とする霊人体の中で、神様から与えられた
こうして、イエスは、第二アダムとして、完全に成熟した姿で人々の前に現れ、福音を伝え始めたのである。その目的は、人々を神様の前に復帰し、堕落前の神様の子女とするためであった。
6-13 再臨によって真の父母を迎えることができる
人々は、真の父母(アダムとエバ)を失い、怨讐サタンに拘束されてしまった。人々の良心が痛むのは、その事実を知らせようとするためである。それゆえ、我々は、イエスの懐に移り、神様を父として、直系の父子関係を結ばなければならない。我々には、そのような重大な責任が残されているのである。イエスが来られた時に、これを完全に成就することができなかったため、再臨が必要となったのである。
我々は、サタンの系統であったため、神様の系統を、養子として継承することによって蘇生し、創造理想である本来の父母の立場を復帰しなければならない。それが、我々人間の目的である。それゆえ、我々は、まず養子のような立場に立たなければならない。それは、嘆息すべき事実であり、苦痛であると言わざるを得ない。この苦痛という名詞が生まれたのは、人類がサタンによって堕落したからである。
永遠なる根本の父は、我々を愛するために、この地を訪ねて来られる。我々は、その父を迎え、さらには、母も迎えることになるのである。このように、父と母を迎えることのできる喜びの時が、再臨と共に来るのであり、この時から、地上の再創造が始まるのである。
6-14 なぜ堕落を止めなかったのか
本来、人は、肉身が完成すると同時に、霊人も完成するようになっていた。その時までが、人の成熟期間であった。その期間内で、霊人が完成してこそ、神様は人に直接愛を与えることができたのである。また、その成熟期間においては、神様が直接主管(干渉)されるのではなく、創造原理によってのみ成長し、完成するように創造された。そのため、神様は、原理主管格として居られ、人の成長結果を見ながら喜ばれていたのであり、人が早く完成することを、この上なく望まれていたのである。
このように、神様は、人に自由を与え、その自由が少しも失われることのないようにされたのである。それゆえ、人は、その自由な成熟期間に、神様のみ旨を成就することができるようになっていた。つまり、人は、神様から干渉されなくても、み
もし、神様が、人に干渉すれば、人が生心を土台として、自律的に行動し、完成するという原理を、神様ご自身が無視するということになる。根本的に、原理によって、神様のみ旨が成就するようになっているのである。
それゆえ、神様が、原理に反して、人の成熟期間に干渉し、未完成な人を愛したとしても、その人は、愛を求めるだけで、原理通りに完成することができない。結局、未完成な人は不完全であるということが、明らかになるだけなのである。そのため、神様は、人が原理によって完成するまで待たなければならなかった。つまり、ただ愛するだけで、理想的な愛が成就するのではない。神様は、原理によって、この上ない愛を成就しようとされたのである。
人が成熟して、神様の完全な愛を受けることのできる存在となれば、人は完全な美を現すようになり、神様を慕う思いが、直接、神様に通じるようになる。こうして、神様は、人から刺激を受け、さらに人を愛することができるのである。この時、神様の愛は陽であり、神様を慕う人の愛は完全な陰となる。このように、人は、神様の愛の対象となることができる。この時まで、神様は、原理主管格として居られるのである。人は、そのような時期にあって、完全に成熟する前に堕落したのである。
人も天使長も、原理によって、自由に活動することのできる存在として、自由な世界をつくり、そこに神様の理想を実現することが目的であった。その目的を果たすためには、人が個性を完成させ、理想的な存在となり、愛の理想を実現させなければならなかった。つまり、神様は、自由な世界に、愛の原理で創造された人間を永遠に存在させることによって、愛の理想を実現しようとされたのである。
今、人々が、自由を求めているのは、堕落によって、自由が拘束されてきたからである。人々が、この自由を取り戻し、理想の愛を求めるようになれば、歴史は、必然的な方向に進むようになる。それは、原理によっても、論理的に導かれる結果によっても分かることであり、事実として、歴史は、自由と愛の理想を基盤として、個性を求める方向へと流れ始めている。これは、人々が復帰されていくことを示す証拠なのである。
人々は、「神様は何故、人を堕落させたのか」と言う。人は、完成する時まで、原理によって主管されるため、生心と良心に応じて、自由な生活をするようになっている。そのため、神様は、人の行動に直接干渉されないのである。このように、人と神様との間には、原理的な距離があるため、人が未完成の時には、神様を直接呼ぶことができない。人の愛が、神様を呼ぶことのできる程度に完成してこそ、神様を理解できるようになり、また、神様に応じることができるようになるのである。
人が、このように未完成で、サタンに応じて行動し得る段階では、生心を土台とした良心作用が、まだ十分だとは言えない。また、神様は、人の行動に直接干渉されないため、人の行動を直接知ることができない。そのため、人の行動結果だけを後に知ることになるのである。つまり、神様は、堕落による結果を見て、人が堕落したという事実を後に知ったのである。
このように、人を創造されたのは、完全な愛を成就させるためであった。つまり、神様が、間接的な関係として、人と距離を置かれたのは、電気の原理と同様に、無形の極に居られる神様と、有形の極に存在する人とが、この上ない大きな愛を成就することによって、互いに引き寄せられ、一つになるためであった。ここで、神様の愛をプラスとすれば、人の愛はマイナスとなる。こうして、人と神様は、互いに感じ合うことができるようになるのである。それゆえ、人の愛が未完成であれば、神様と直接感じ合うことができないのであり、また、堕落による非原理的な愛がマイナスとして作用したとしても、神様には通じないのである。
神様は、このように人を創造された。こうして、人が完成していれば、神様の愛が、人を通して、万物にも伝わるようになっていたのである。
しかし、その愛の理想は、人の堕落によって成就しなかった。それは、善の存在ではない非原理的な存在が現れたからである。こうして、善と悪の分岐点が生じてしまった。それでも、地上においては、原理的に、人が中心であるため、人は繁殖し、歴史的に発展してきたのである。しかし、人々は、サタンの工作によって、非原理的に主管され、神様の創造目的とは異なる方向に向かっていった。このような世界に、どうして安楽と平安があるだろうか。
6-15 我々は悔い改めざるを得ない
サタンは、人々を別の目的地に引っ張ってきた。人々は、そのような事実を知らず、生きること自体に苦痛を覚えてきたのである。しかし、これは、神様の創造本意ではなかった。それゆえ、神様は、本来の理想のかたちを取り戻そうとされてきたのである。それが、歴史における神様の摂理路程である。
その摂理路程において、善神と悪神が対立してきたため、人類の歴史は、その影響を受けざるを得なかった。今も、サタンは人々を支配しようとし、神様は人々をサタンから取り戻そうとされているのである。
これを知った我々は、どうして、天の父と母の前に、悔い改めずにいられようか。我々は、神様が本当の父母だとは知らずに冷遇してきたという、申し訳のない立場だったのである。これが、キリスト教における悔い改めの根本的な意義である。
しかし、その悔い改めが、何ものにも代えがたい喜びの始まりとなる。こうして、万事は、原理によって平安に始まるのである。また、良心の目覚めも喜びの始まりであり、新しい福音は喜びの中心となる。
この世が悪で始まったため、この世を善にすることが、神様の目的である。神様は、必ずこれを果たして、勝利しなければならない。
しかし、今は、悪が主管している時期であるため、悪人が勝つことになっている。そのため、善人の多くが、踏みにじられているのである。このように、この世では、偽りのものが先に現れる。これが今の実状であるが、後にこの世が善となるように、全天宙の存在が努力しているのである。現在のキリスト教信徒が、このような事実を知らないということは、非常に残念なことである。
6-16 再臨主は人の姿で来られる
堕落によって生じた悪は、原理路程を越えて、先に結実するようになっている。その悪の結実の時が、キリスト教でいう終末、即ち、審判の時であり、再臨の時である。この時に、決してこの世が無くなるのではない。地上天国を完成させるために再臨されるのである。
再臨主は、完成した人の姿で来られる。それは、原理から分かるように、イエスが肉身で果たすことのできなかったみ旨を、再臨主が肉身で果たさなければならないからである。つまり、再臨主は、堕落したアダムとエバを復帰し、この世に善の基盤を立てなければならない。
6-17 万事は原理通りに成される
神様は、原理を通して、万事を成そうとされる。それゆえ、神様は、サタンを強制的に屈服させるのではなく、原理通りに、自然に屈服させようとされるのである。また、神様が6千年の歴史を歩んでこられたのは、この世に原理世界を実現するためである。
それゆえ、神様は、原理通りに、サタンにも自由行動ができるようにされたのである。聖書には、サタンが神様と対話していたこと、人を
また、神様が、パロをかたくなにされたのは、イスラエル民族を完全に放棄させるためであったが、イスラエル民族を放棄するかどうかは、パロの自由だったのである。そして、神様がイスラエル民族の行動結果を残念に思われたという事実は、人の自由行動の結果を見ておられたということを示しているのである。
神様は、このようにして、全ての理想を完成させようと、今まで苦心してこられたのである。我々は、これに対して、どのように対応しなければならないのか。それは、考えるまでもない事である。