26 反対性作用
26-1 反対性作用は自分を守るための作用
天宙の全ての存在は、対象として完成するために、理想的な位置を定めようとして、衝動的な作用を引き起こす。これが、力と運動の始まりである。
各存在の対象位置は、それぞれ異なるが、中心的存在と100%授受することができるように、その位置を定めている。もし、そこで授受することができなくなれば、消滅するか、或いは別の対象位置を求めなければならない。このように、全ての存在は、対象位置を定めてこそ、存続することができるのである。
このような、原理的な作用に対して、反対性作用というものがある。これは、自分の原理的立場を守るために、相手と距離を置いて、授受しないようにする非原理的な作用である。この作用は、自分を守ろうとする力が強いほど、それに比例して大きくなる。こうして、相手と距離を置き、影響を受けないところを定めて、そこを境界とするのである。全ての存在が、このような排斥力を持っている。この力の作用があってこそ、蘇生、長成を経て完成することができるのである。
26-2 不安を覚える理由
神様も被造物も、原理を完成させようとする立場に立っているが、最後に創造された人という存在が、未だ、その立場に立っていない。そのため、人は、良心に反した場合、反対性作用を受け、不安を覚えるのである。従って、人は、原理の完成に向かっていかなければならない。
人が堕落しているために、全てが未完成のままとなっている。原理は、神様と授受することによって完成するが、堕落によって、人は、サタンと授受するようになった。これが今でも続いている。では、人が、サタンと授受することによって、満足できるのかと言えば、そうではない。やはり、反対性作用を受け、不安を覚えるのである。このように、基本原理が未完成であるため、天宙の全てが、その影響を受けてきたのである。
結局のところ、不安というものは、自分が反対性作用を受けているという警告である。また、反対性作用を受けているということは、自分が未完成であるということを意味する。つまり、自分が完成すれば、反対性作用は無くなり、永遠に神様と授受することができるのである。
堕落する前のサタン、即ち、ルーシェルは、神様から原理的な作用を受けていた。本来、ルーシェルは、原理的な立場に立っていたのである。しかし、ある時から、非原理的な思いを持つようになってしまった。その時、ルーシェルは、反対性作用を受けて、不安と恐怖を覚えていた。それが、堕落の始まりであった。ここで、反対性作用に応じていたならば、ルーシェルは、原理的な立場に復帰することができたはずである。
しかし、ルーシェルは堕落し、神様から離れ、サタンとなってしまった。そのサタンが、人を対象とし、非原理的な授受をすることによって、人を堕落させたのである。そのため、人は、未完成のままとなった。サタンは、望みを叶え、喜んだかも知れないが、サタン自身も未完成のままとなったのである。
つまり、サタンは、原理の完成を妨げただけではなく、未熟な立場で、堕落世界を築いてしまったのである。人は、その世界にいる限り、未完成のままであるため、反対性作用による不安から逃れることはできない。人は、堕落世界を出て、完成してこそ、反対性作用を受けなくなり、不安から解放されるのである。
人は、蘇生の期間を過ぎ、長成から完成に向かう途中で堕落した。こうして、人は、サタンの対象となり、自由を束縛され、完成することができなくなった。従って、人が完成するためには、必ずサタンとの関係を切らなければならない。それを成そうとするのが、神様の摂理である。逆に、サタンは、人が自分との関係を切ることができないように働いている。もし、サタンと人との関係が切れれば、サタンは対象を失うため、それが大きな苦痛となるのである。
神様は、全体を完成させようとされるが、サタンは、自分の立場を立てようとする。人は、堕落したことによって、サタンのように、非原理的な存在となってしまった。しかし、創造目的は、サタンを中心とする非原理的なものではなく、神様を中心とする原理的なものである。それゆえ、神様は、原理を完成させるためのみ旨を立てようとされる。これによって、サタンは、さらに不安を抱かざるを得ないのである。
26-3 結局サタンは排斥される
人は、自分の相対的存在が、対象として完成することを望むようになる。例えば、自分が男性であれば、女性が対象として完成することを望むようになり、それが実現してこそ、原理を完成させることができるのである。従って、イエスの相対的存在であった女性が、対象として完成していれば、イエスは、サタンを分立することができたのである。
事実として、イエスの肉体から、サタンを完全に分立することができなかったため、イエスの肉体は、いつでもサタンに侵害される可能性があった。しかし、聖霊が、イエスの対象となったため、イエスは、霊的にサタンを分立することができたのである。
それでも、イエスは、肉体をもって、原理を完成させなければならないため、再臨主は、必然的に、肉体をもって来られるのである。こうして、再臨主が、原理を完成させれば、天でも地でも、原理が完成するため、非原理的なサタンは、どこに行っても排斥されることになる。そして、サタンが排斥されたところには、地上天国が築かれるのである。
26-4 反対性作用は原理を完成させるために必要
神様は、原理を完成させなければならないため、今まで、そのみ旨を放棄することができなかった。原理が完成すれば、人は、永遠に原理的な立場に立つことができる。こうして、人が、神様の対象として完成し、神様と一つになれば、地上は完全に原理世界となるため、サタンは自然に排斥され、地上を侵害することができなくなる。しかし、今は、人が未完成であり、サタンの対象となっているため、サタンを自力で排斥することができないのである。
反対性作用というのは、非原理的作用ではあるが、各存在を完成させ、それを維持するために必要な作用である。つまり、それは、対象位置を求めて完成し、それを維持せよという神様の命令なのである。
つまり、本来の非原理的作用というのは、原理の完成を助けるための善なる作用である。しかし、サタンが、非原理的立場に立ち、原理の完成を妨げるようになってから、非原理的作用が、悪なる作用としても働くようになった。このように、非原理的作用には、善と悪の作用があることを知らなければならない。
26-5 悪は不完全な善から生じた
結論を言えば、悪は、不完全な善から生じたのである。もし、善が完全であれば、非原理的作用は、悪なる作用としては働かなかった。この世に悪が繁殖したのは、善が不完全だったからである。つまり、悪は、善が完全なものとなる途中で生じたのである。従って、終末に原理が完成し、善が完全なものとなれば、非原理的作用が、悪なる作用としては働かないため、非原理の主人であるサタンも、神様の側に立つことができるようになる。
26-6 地獄解放運動
神様は、原理の完成を目的としているため、人を原理的に主管しようとされるが、人が堕落すれば、原理を離れ、神様の目的とは無関係になるため、人は破滅の道を行くことになる。しかし、神様は、そのような人であっても、神様に対して相対位置を取れば、その人を神様の対象にしようとされるのである。これに対し、サタンは、反対性作用を受けながら、人に作用するため、自分が破滅していきながら、人までも破滅させようとするのである。
天国に行くか、地獄に行くかは、本人の相対位置によって定められる。従って、地獄に行くべき者が、天国に行くと言っても、それは無理なことである。しかし、人は、神様側に立つことが原理となっているため、原理が完成すれば、地獄解放運動が始まるのである。そのようになれば、サタンも存在するためには、神様側に立たなければならないため、結局は、悔い改めて、神様に屈服せざるを得ないのである。
既に述べたように、被造世界には、各存在を完成させるための反対性作用がある。その作用によって、各存在が、原理を完成させることができる。また、創造原理は、幸福になることが目的であるため、サタンも結局、不安から解放されたいと望むようになる。そのため、神様は、サタンが非原理的存在であることを心配されてはいなかった。それゆえ、サタンにも自由を与え、原理的な結果を望まれていたのである。
26-7 距離を置くことで秩序が保たれる
全ての原理作用は、各存在を完成させるためにある。その作用には、原力作用と、各存在間の位置を定める反対性作用がある。この反対性作用があるために、各存在は互いに距離を置いているのである。こうして、各存在は、別々の位置で完成するが、後には互いに原力作用を始めるようになる。つまり、反対性作用によって、秩序が維持されているのである。
創造原理では、各存在が、異なる個性を持ちながら、対象として完全であろうとするために、基本となる中心的存在と授受している。こうして、各存在が、中心的存在と一つになれば、個性を完成させ、創造の美を現すことができる。そのため、各存在は、互いに干渉しないところ、或いは干渉されないところに位置を取り、中心的存在と授受しながら、存在しているのである。
例えば、N極同士が向かい合っているときは、どのような状態なのかと言えば、互いに距離を置いている状態である。しかし、片方のNに、別のNが近づけば、反対性作用を見せ、距離を置こうとする。今まで、このような原理作用を知らなかったため、ただ単に、同極であれば反発し、異極であれば引き合うと考えていたのである。
ここで、NとSが一つになり、NSとなれば、それは、N'の作用によっては分立されず、むしろN'に反対性作用を与えて、距離を置き、秩序を立てて、N'を完成させようとする。それゆえ、N'がNSの周囲を回っていても、N'はNSの対象となることはできない。しかし、N'がS'と一つとなり、N'S'となれば、NSに対して、対象としての位置を定めることができる。こうして、N'S'は、NSと授受しながら、原力作用を維持することができるようになる。また、NSとN'S'は、他の存在とも授受することができるため、さらに、二つの原力を生み出すことができる。
また、NSとN'S'が結合しても損失が無く、破壊されないならば、他の存在も、一つになろうとして、集まるようになる。このように、結合していきながら、より大きな存在を構成していくのである。こうして、様々な模様で配列されていくことが、創造の妙味であると言える。そこには、ある基本の力が働いている。その力によって、このような創造が展開され、被造物が完成に向かっていくのである。
天宙にNとSが存在するのは、NSとして居られる神様が、ご自身を展開されたからである。それゆえ、Nが現れれば、Sも現れ、双方が完成すれば、互いに距離を置こうとはしない。それは、再び一つになるためである。つまり、本来一つであったものが分立され、また一つになるために、授受するのである。しかし、一つになれば、それは、また分立される。このように繰り返され、繁殖していくのである。光が生じれば、それは、分立したことを示している。
26-8 別々の存在でも全ては一つの目的に向かっている
天宙の各存在は、それぞれの使命を果たしながら、全体の完成に向かっている。例えば、人の肉体を全体として見れば、それは、細胞によって構成されているが、各細胞は、それ自体のために存在しているのではなく、肉体を構成するために存在している。また、我々の耳、目、口、鼻は、互いに異なった感覚を持っているが、それぞれが役割を果たしながら、一つの目的を果たすために、協力しているのである。このような事から、基本となる中心的存在が、それを構成する全ての存在と授受しているという原理的事実を知ることができる。こうして、原力作用を起こしながら、創造目的の完成に向かっているのである。
原理が、生命と幸福の根本であることを知るようになるとき、互いに授受するようになり、全体が一つになっていくのである。こうして、各存在は、神様の創造目的に貢献しながら、それ自体を完成させていくのである。悪の側では、そのような事はない。全ては、原理によって、存続することができるのである。
自分と反対の立場に立っている存在は、自分に大きな刺激を与えてくれるため、感謝すべき存在である。その刺激によって、反対性作用が起き、自分の目的を早く完成させることができるのである。各自が、この意味を理解しなければならない。
全ての存在は、一つの根本から繁殖した存在であり、それぞれには、果たさなければならない目的がある。それが、対象目的である。その目的を果たすために、存在位置を定めているのである。
人の最高目的は、原理を完成させ、神様と一つになり、原理世界を実現することである。また、神様は、人を中心として、天宙を創造されたため、人は、天宙の全てを神様につなげるための中心的存在となっている。従って、人は、天宙の全てを対象として完成させ、神様につなげなければならない。
人は、神様と直接授受することのできる立場にある。それゆえ、人は、神様に喜びを返し、対象目的を果たしてこそ、神様から生命要素を受け、幸福になることができる。このような世界が、原理復帰世界、即ち、円和世界である。
しかし、人は今まで、神様の相対的存在とはなれず、対象位置を定めることができなかったため、動物のように、本能的に生きてきた。このような立場から、理想的な立場を求めて完成しようとすれば、良心的な方向に向かわざるを得ない。こうして、神様の対象となることが、人に対する神様の望みである。これを実現させるところが地上であり、これに責任を持たれる方が再臨主である。従って、再臨主と共に、神様と一つになる世界を築くために出発しなければならない。
原理によって創造された存在は、互いに和合することが基本となっている。それゆえ、皆が秩序正しく、円満に生存することのできる世界を築かなければならない。特に、万物の霊長である人間は、自己を主管し、他の存在に、それを示すべきではないだろうか。それができなければ、他の存在に対して、恥ずかしい立場とならざるを得ない。
我々は、基本原理を完成させ、万物が対象目的を果たせるように、また、未完成の人を完成させることができるように、自分の立場を高めて、全ての存在と調和し、共に喜ぶことのできる中心的存在となるべきである。そのためには、我々が、天の父母と一つになり、肉身の父母と一つになり、自分の対象と一つになり、良心に従って、原理的な立場に立たなければならない。その上で、非原理的な存在が自然屈服することのできる原理世界を築くのである。
我々が、自分自身を完成させ、原理的な立場に立てば、非原理的なものは無くなるのである。従って、サタンがいると心配する必要はない。各自が、それぞれの使命をよく知り、生涯を送らなければならない。神様と一つになり、家庭、社会、世界と一つになって、原理を完成させ、自分自身が完成すれば、この上もなく大きな基盤が完成するのである。これこそ、理想世界ではないだろうか。