21 宗教と科学

21-1 宗教と科学の原理を一つにすべき理由

世界の現キリスト教が、科学世界を主管できなければ、世界は、自然に、科学を中心とする方向へ向かうことになる。キリスト教の最高目的は、未知であった科学の根本を明らかにし、科学と一つになる道を探し出すことである。このようにして、キリスト教は、発展した科学を主管しなければならない。しかし、今、世界の人々は、宗教が非科学的なものだと思っている。それは、大きな誤解である。真の科学は、宗教から始まるべきである。宗教は、原理実践の中心とならなければならない。

最高の宗教原理が、最高の科学原理と一つになってこそ、神様と20世紀の文明世界が一つになり、神様が主管することのできる世界となるのである。それゆえ、キリスト教を中心とする国々は、現状のままであってはならない。そして、全世界の人々の前に、未知の原理を明らかにしなければならない。キリスト教は、このような使命を持っているのであり、天は、キリスト教に対して、それを切望しているのである。それは、ただ、非原理的な立場から、原理的な立場へと、姿勢を変えれば良いのである。そうしてこそ、原理を完成させることができる。

まず、あらゆる原理的観点から、宗教の原理を明らかにしなければならない。その基本は、宗教と科学の共通点を見つけ出すことである。また、科学者たちに対して望むことは、対象原理(対象的存在のみが、中心的存在と完全な授受ができるという基本法則)を知った上で、新しい原理を多く発見することである。神様が居られる以上、宗教と科学の原理は、一つになるべきである。今ここで、新しい原理を発表しているのは、全ての原理を一つにするためである。

人は万物の中心であり、万物は人の対象である。そして、神様は人の中心であり、人は神様の対象である。それゆえ、完成した人は、自分が神様の対象の位置に立っているということが分かるようになり、さらに、神様と人と万物が、科学的にも、つながっているということが分かるようになる。宗教は、科学と一つになり、天宙を創造された神様を明らかにしなければならない。それは、人が神様の対象となることによって、果たされるのである。

宗教原理と科学原理がつながり、宗教が中心的な位置を取るようになったとき、宗教の使命は完結するのである。このように、原理を離れた科学は無く、原理を離れた宗教も無い。従って、それらの根本である神様は、原理を離れて存在することができないのである。

我々は、現在の地上世界を、神様が臨在することのできる原理世界にしなければならない。神様が居られる地上世界を、地上天国というのである。その世界は、原理の完成した世界であり、神様に属する世界であり、理想の実現された幸福な世界である。そして、その世界の原理的存在は、創造原理と一つになって、それぞれの目的を果たそうとするであろう。このような世界が、イエスの理想としていた世界である。こうして、唯心論と唯物論が相通じるようになり、天宙の全てが統一されるのである。神様が今まで、サタンの活動を許されたのは、原理を完成させるためであった。


21-2 力が生じる理由とその作用

万有引力を発見したニュートンは、天文学にまで影響を与え、今では、科学の元祖のような立場に立っている。さらに科学は発展し、20世紀に入ると、アインシュタインが、相対性理論を発表した。これらの科学者は、被造世界の原理を研究し、その原理が、全体に展開されているということを、公式を通して明らかにした。

ニュートンは、存在する全ての物体には、引力があるとしている。この引力の発見は、科学に偉大な貢献をした。しかし、引力が、どのような原理によって生じるのか。これが、未解決問題となっている。力が生じる理由は、目的を果たすために、出発しようとするためであり、そのときに、引力も生じるのである。

力は、被造物が存在するために必要である。また、力が働くところには、その作用を受けているものがある。それは、電気の原理を知ることによって、よく理解することができる。つまり、電線に電気が流れれば、その電気は、電線を構成する物質に作用する。また、その電流の大きさによって、電線の周囲に生じる磁界の強さは変化するが、その変化は、電線の種類が変わっても同様である。何故なら、H=I/(2πr) という公式によって変化するからである。(図を参照) こうして、電流によって、磁界が変化するように、ある本体から受ける力に応じて、その作用による状態も変化するのである。


電流の大きさによって磁界の強さは変化する

地球に作用している引力は、地球自体が持っている引力、或いは地球を存続させようとする存在の引力であると考えられる。力は、目的を果たそうとして、出発する所からのみ生じる。つまり、地球の存続を目的とする存在があり、地球は、その存在が持っている引力の作用を受けているのである。従って、その存在は、地球とは別の存在であるということになる。

地球から、太陽をはじめとする無数の天体を観測することができる。もし、地球が、宇宙の中心であるとすれば、地球の引力は、地球自体に作用していると同時に、他の天体にも作用しているはずである。しかし、地球の引力だけでは、無数の天体の均衡を保つことはできない。つまり、中心として存在するためには、他の多くの存在に与えることのできる力を持っていなければならない。その力の大きさは、中心的存在の引力に比例する。このように、与えることのできる力を持っていてこそ、その力に応じた対象を定めることができる。太陽系においては、中心である太陽が、他の天体に作用しており、それらの天体は、対象として、太陽と授受している。このようにして、太陽系が維持されているのである。従って、宇宙の全てに存在原理(存在を安定的に維持する仕組み)を構成することのできる引力が、宇宙のあらゆる所で作用していると言えるのである。

しかし、力は、引力だけではない。創造原理である対象原理が成立し、中心的存在と対象的存在が、完全に授受することができるようになれば、それによって、原力(存続するための力)が生み出される。ここでは、それを万有原力と呼ぶことにする。この原力があってこそ、存続することができる。もし、存続できなくなれば、ある存在に吸収されてしまうのである。


21-3 中心的存在との授受が必要な理由

太陽系において、太陽は惑星を対象とし、惑星は衛星を対象としている。従って、衛星は、太陽の間接的な対象となっている。つまり、太陽系の天体は、太陽との直接的な授受、或いは間接的な授受によって、均衡が保たれているのである。このように、対象的存在は、中心的存在との授受によって、存続できるのであるが、これは、間接的な関係においても同様である。従って、全体としては、根本となる中心的存在の力の作用によって運動し、均衡が保たれていると言える。このような創造原理による構造が、宇宙全体に展開されているのである。

天体は、互いに、相対的に存在しているが、中心的存在に対しては、対象としての位置を取りながら、円形運動をしている。これを持続させるために、中心的存在から対象的存在に対して、ある力が作用している。例えば、地球は、その力によって、太陽を中心として、運動を続けているのである。つまり、その力が作用しているということは、対象の位置にあるということになる。これが、神様の創造原理であり、運動の原理である。

今のところ科学で分かっていることは、相対性があるという事実までである。ニュートンは、引力による作用があるという事実までを明らかにした。ニュートンの言う反作用というのは、反対の方向について言っているのであり、作用している力の原因のことを言っているのではない。従って、ニュートンは、授受するという本来の原理を、受けるだけの原理として見ていたということになる。ニュートンの作用・反作用の法則が、授受を基本とする原理となれば、神様の創造原理を表す基本原理となることは明らかである。

私が、ニュートンの作用・反作用の法則をここで述べたのは、対象原理を成立させ、存在原理を完成させるためである。こうして、この世界が、創造原理世界となれば、全ての存在は、原理的な立場を取り、対象の位置は自然に展開され、対象としての存在目的を果たそうとする各存在によって、発展が始まり、新しい科学が生まれ、新しい文明世界となるのである。

例えば、電気の場合、プラスが現れれば、その対象となるマイナスも自然に現れる。これは、マイナスが、しかるべき位置に現れて、対象としての存在目的を果たそうとするためである。こうして、プラスとマイナスが生じれば、電気の原理によって作用し、目的を果たすことができる。つまり、これが、電気の発生する根本原因である。

太陽系の宇宙万物の中心は太陽である。それゆえ、そこでは、太陽を中心とする原理の基盤を離れては、存在することができない。もし、その基盤を離れれば、破壊されるか、腐敗することによって、消滅するというのが原理である。

万物は、人を中心として、存在位置を定めている。人は、神様を中心として、存在位置を定め、地上の全てを主管し、また、地上に理想を実現して、神様と一つにならなければならない。つまり、地上においては、人を中心として、創造原理世界が築かれるのである。そこで、調和の取れた授受をすることが、善であり、創造理想である。こうして、全てが一つになる円和世界が実現される。この世界が、堕落した世界の中で人々が待ち望んでいる原理復帰世界なのである。

全ての存在は、円和世界を実現することができるように、中心と一つになるための要素を持っている。この事実が、科学的に証明されれば、天宙の全ての作用が、授受することによって起きているという原理の存在を明らかにすることができる。全ての存在は、授受することによってのみ、存続できるのである。

非原理的な世界は、神様を中心として授受することのできない世界である。また、原理世界に、非原理的なものが存在すれば、それは、神様の敵のようになる。それゆえ、原理の神様は、神様を中心として授受しようとしない非原理的な悪の存在を敗北させ、滅亡させるのである。

神様を中心として授受する世界が、最高の理想世界である。このような世界を実現することが、人々の果たすべき使命である。従って、家庭では、神様を中心として父母と授受し、また、兄弟間でも授受しなければならない。こうして、平衡を保つことが、円和世界の理想なのである。


21-4 一つの点から科学的な基本原理が展開された

原理世界とは、対象目的を完成させようとする世界である。そのため、中心的存在は、相対的存在を定めて、授受することのできる対象を求めようとする。つまり、原理は、相対的存在を定めるところから始まるのである。次に、その存在が対象となれば、中心的存在の力は、授受することを目的として、その対象に向かって作用する。こうして、対象となった存在と授受することによって、対象原理が完成し、これがさらに展開されていくのである。

では、中心的存在や相対的存在が現れる前は、どのようになっていたのか。それらの存在の中心となる一つの点が存在していたのである。従って、天宙は、無から始まったのではなく、この一つの点、即ち、有から始まったのであり、そこから、基本原理が展開されたのである。このようにして始まった創造の目的は、原理世界を完成させることである。

このように、最初に、有である一つの点があり、これが、小から大へと広がっていった。そして、対象目的を完成させることができるように、相対的な位置関係を定め、科学的な基本原理によって、創造が進められたのである。

私が、ここで述べていることは、最初の一つの存在が、全ての存在の起源となっているということである。つまり、この一つの存在が起点となり、多数の存在が創造され、それらが対象目的を完成することによって、第二の起点となるようにされたのである。このように、多数の存在を創造された目的は、それらをまた一つに統合するためである。こうして、創造主である神様に帰ってこそ、被造物としての価値が生まれるのである。

上述の通り、この世界は、有である一つの起点から始まった。これに対しては、誰も反論することができない。つまり、神様自体が原理の根本であり、作用の起点であり、平衡の支点であり、理想となる円和世界の中心である。


21-5 人は各自の使命を果たすために神様を離れてはならない

天宙で賛美されるべき存在は、完全なる唯一の神様である。神様と一つになれば、授受の回路が形成され、全ての原理と一つになり、価値ある対象としての位置が定められる。こうして、神様への賛美が、自分への賛美として帰結するのである。誰が神様の栄光を賛美しないであろうか。

神様が完全であるように、人も完全となるべき責任がある。何故なら、神様は、全ての完成を望んで、この世界を創造されたからである。人が、その責任を果たすことができず、未完成のまま、非原理的存在となれば、幸福になることはできない。それは、神様を離れるからである。そうなれば、人は、不安を覚えざるを得ない。しかし、そのときに、人の根本的な本体である神様も、不安を覚えることは事実である。それゆえ、神様は、人の堕落によって嘆息たんそくされたのである。

従って、創造された全ての存在は、本然の理想世界を築くために、神様を中心として授受することのできる対象の位置を取り、それぞれの使命を果たさなければならない。特に人は、誰かが責任を追及しなくても、各自の責任で、自己を完成させるという根本目的を果たし、さらに、天宙に対する価値を復帰するために、自己の位置を定め、各自の使命を果たさなければならない。完成した人々は、原理的存在であるため、天宙は、そのような人々が全ての使命を果たすことができるように協力するのである。

神様は、全ての存在の主体として、幸福をもたらしてくださるため、人々は、ハレルヤ、アーメンと言い、神様を賛美するのである。神様が、天宙の全ての存在の起源であり、それらの完成を目的としておられるということを知らなければならない。


21-6 存在の起源を明らかにすべき理由

科学は、20世紀に入り、多角的に発展してきた。しかし、人や万物の本当の価値については、未だに分からない。そのため、ダーウィンの進化論では、生命の起源を物質だとしているのである。

今、科学は、相対性理論にまで至っているが、宗教は、この科学の理論を宗教の原理と一つにしなければならない。それを果たすために、相対的存在に対する対象原理を明らかにしたのである。この原理によって、宗教と科学が一つになり、原理の復帰された世界となれば、様々な問題を共通の問題として解決することができる。こうして、宗教が科学の前提となれば、神様の実相が明らかになるのである。

今まで科学は、大きな難題を抱えてきた。それは、存在の起源を明らかにしていないということである。唯物論的な立場に立っている者は、物質が起源だと言っている。しかし、その前に考えるべきことは、力の作用、即ち、運動の根本的原因が何であるのかということである。それを見出すことができないため、神様を否定しているのである。このような彼らの問題を解決しなければならない。


21-7 運動の根本的原因

太陽系の惑星は、太陽を中心として、円運動をしている。つまり、図のように、0点を中心として、対象が円運動をする原理が展開されている。このとき、太陽も回っているが、それは、自体内の対象が、中心点と授受することによって、同様の原理が展開されているからである。この中心の力は、各対象に作用し、共に存在できるように、各対象の位置を定めているのである。


中心点との授受による対象の円運動

同様に、天宙の他の存在も、中心と授受することのできる円運動の軌道を定め、それを維持している。何故なら、その軌道上でのみ、中心の力が作用するからである。天宙が、このように構成されていることを知らなければならない。以上のような創造原理には、様々な原理が含まれているため、それらを統合しなければならない。

対象となっている存在は、それ自体の目的を果たそうとするときに、中心的存在に対して力を要求する。その力が対象に作用して、運動が始まり、熱が生じるのである。このようにして原理が展開され、それに伴う現象が現れるようになる。その原理は、万物も人も同様であるが、万物は天から力を受け、人は天から愛を受けている。また、万物は人の対象の位置にあるため、動物たちは、人から愛を受けようとするのである。このような、創造の本質を知らなければならない。


21-8 存続するためには万有原力が必要

中心的存在に対して、相対的な位置を取れば、そこには必ず引力が働いている。しかし、それと同時に、反対方向の力も働いている。ここでは、その力を授力と呼ぶことにする。この授力と引力を授受してこそ、相対的な位置が定まり、対象として完成するのである。つまり、対象は、中心的存在と授受しながら、平衡を保っているのであり、引力だけでは、引き続けることになるため、原理の完成した状態を維持することはできない。従って、授力と引力が共にあってこそ、平衡を保つことができ、対象は、中心の周囲を運動することができるのである。(円運動の場合には、遠心力を授力、向心力を引力と見ることができる。愛と美を授受する場合には、愛を授力、美を引力と見ることができる。)

授受作用によって生じる力を、私は万有原力と言っている。存続するためには、この原力が必要であるため、中心と授受しながら、平衡を保っているのである。もし、この原力を失えば、存在を維持することができず、中心に吸収されてしまう。それゆえ、存在しているものは、必ず、対象となる位置を取って、中心と授受し、原力を生み出さなければならない。

例えば、地球上の様々な存在が、それぞれの位置を定めているのは、存続することのできる対象の位置を確保しているからである。そこで各存在は、地球と授受することによって、平衡を取りながら、原力を生み出している。つまり、中心は、必ず対象を持っているのである。しかし、各存在が、中心である地球との関係においてのみ、原力を得ているのかと言えば、そうではない。同じ要素を持った存在においても、互いに作用して、原力を得ているのである。

例えば、分子は、その構成要素である原子が互いに付着したものである。この力を物理学では付着力と言っているが、それは、原力作用(存続させようとする作用)によるものであることを知らなければならない。つまり、物質の集まりである地球自体も、原力作用によって存続しているのである。従って、地球も、この作用を続けなければならない。

地球が太陽の周りを回っているのは、原力作用が働いているからである。地球の地軸は、太陽に対して、原力が作用する方向に定められている。それゆえ、地球は、南北を中心軸としているのである。地球において、この原力は、電気的な作用をしている。それは、南北に通っている地磁気が証明している。つまり、地球が存続するためには、電気的な作用が必要であるという結論になる。

物質は、電気的な要素を持っているため、物質間の授受というのは、電気的な授受となるのである。ここで、電気とは何であるのかと言えば、存在する原力が現れたものである。電気自体は、物体でもなく、粒子でもない。ただ、その作用の結果だけを見て、電気というものを認識しているに過ぎない。電気は、自然界を超えた原力による現象なのである。

電気が物質を通るのは、物質に原力要素(ここでは電子のこと)が存在するためであり、また、電気が空中を伝播でんぱするのも、原力要素によるのである。つまり、この原力要素によって、全ての電気的作用が起こり、この作用によって、電気が運動や熱となるのである。この原理を利用しているのが科学であるため、科学も原力を離れることができないという結論になる。

電気には、原理的な性質が見られる。つまり、一つが生じれば、相対的存在として、もう一つが生じ、それが対象となる。こうして、二つによって、完全な存在となるのである。そのため、単独では存続することができない。もし、単独であれば、それは、消滅する方向に向かっていく。従って、電気のプラスとマイナスは、それぞれが単独では存続することができないのである。

如何なるものでも、完全な存在となるためには、対象の位置に立たなければならない。従って、不完全な存在が、完全となるためには、相対位置を定め、対象となる路程を行かなければならない。その路程の途中では、存在としては認められるが、完全な存在としては認められない。例えば、男性と女性の場合、完全となるまでの路程においては、独身であることが認められる。しかし、完全な存在とはならずに、独身生活を継続することは、原理的には有り得ないことなのである。

中心的存在が対象を求めるのは、原理である。それゆえ、周囲の全ての出来事は、各自が対象存在として完成するために起こっているのである。つまり、自分に対しても、自分の対象に対しても、このような原理的作用が働いている。この作用は、小から大へと展開されていくが、その全ては、一つの根本である神様につながっている。

自分自身が存続するためには、自分に原力が作用していなければならず、その次に、異性の相対的存在を対象として授受し、原力を得なければならない。こうして、人は完成するのである。このような原理を離れては、存続することができない。これは、細菌や昆虫などの小さいものから天体に至るまで同様であり、また、天の存在においても同様である。このように、原理を小から大にまで展開したものが天宙創造である。

このような基本原理が、全てに共通するものであれば、科学的にも、神様が原理の中心的存在であり、創造主であると言うことができる。私は、神様ご自身を展開したものが天宙であるという結論を出したが、それは、基本原理を知ることによって、理解できるようになるのである。

人には、物質と良心が共に作用している。つまり、物質の作用によって、地上で生きることができるのであり、良心作用によって、天の善を中心として生きようとするのである。また、良心に従って、より善に向かおうとするのは、最高の善に対して、相対的な位置から対象の位置へと向かう途中に存在しているからである。このように、良心作用は、人を完成させようとする作用であり、また、原理的な作用であるということが分かる。神様は、良心作用によって認識できる存在として居られるのである。

天宙は、神様を中心とする構造になっているため、天宙の全ての問題は、神様を中心とすることによって解決できる。これに対しては、誰も否認することができない。原理的な存在は、神様の理想を中心とする公式のような原理によって展開されたものであるため、存続することができるのである。しかし、それ以外の存在は、存続することができない。


21-9 ニュートン力学に対する原理的な考え方

全ての宗教、哲学、科学は、一つの原理によって捉えることができる。つまり、全ての問題は、対象原理によって原力作用が働くということを理解することで、解決することができる。これが最も根本的な理論であるとすれば、それは原論であるということになる。例えば、授力と万有引力との授受によって万有原力が生み出されるという原理を導入すれば、ニュートン力学は、総合的な理論となる。しかし、それは、宗教でも哲学でも、同様に適用することができるため、新しい理論としなければならない。こうして、一つの原理に到達させることは、善なることである。

皆が真理だと言っているものは、真理として完成していく過程の中にある。この過程には、蘇生、長成、完成という基本的な段階があり、真理が完成することは、既に定められている。こうして、もし真理が完成し、全ての信仰的問題が解決されたとしても、原理世界を築くという信仰の目的は、完遂しなければならない。

ここで、原理を物理原論として論じると、次のようになる。地球上の物体が、安定して静止しているとすれば、それは、平衡位置が定まっているということである。しかし、地球の外部から見れば、その物体は、地球と共に運動を続けている。これを物理では慣性という。原理的な見方をすれば、慣性が働いているのは、その物体が、地球と授受して、地球と一つになり、原力を得ながら、存続しようとしているからである。もし、地球上で安定していた物体が移動したとすれば、それは、万有原力に打ち勝つことのできる力が、外部から働いたということである。しかし、その物体は、移動することによって、位置を変えたに過ぎず、外部力が無くなれば、原力作用は、また、その物体に働き続けるのである。

視点を変えて見れば、外部力によって物体が移動したということは、その外部力の作用によって破壊されないように、物体が、その位置を避けたということである。従って、移動とは、自体を維持するために、避けることだと言うこともできる。

また、物体に作用している原力は、対象の位置を変えないように、維持しようとして働いている。それゆえ、その物体は、中心的な位置を維持している存在と一つになろうとするのである。逆に、中心的存在は、位置を維持していなければ、対象を定めることができない。このような事から、慣性とは、対象の位置を維持しようとする物体の性質であると言える。従って、対象が存在するところには、必ず慣性の性質が現れる。もし、慣性が無ければ、対象は、存続することができないのである。

我々にも、慣性のような性質がある。それが、天の善に従おうとする良心作用である。これに対して、外部力となるのが、サタンの作用である。我々の良心は、肉身の上にあり、常に天に向かっている。こうして、天と一つになることが、最高の理想である。


21-10 宗教家と科学者に伝えたいこと

一つから多数に展開され、それらが一つに帰結する。この論理を世界の科学者たちに伝えなければならない。この責任を果たすために、このような未知の事実を、ここで述べているのである。

物質の根本は、分子、原子、電子などとされている。この小さな世界にも、同様の原理が展開されているのである。物質は、マイナス電荷の電子を持っているが、電気的には中和されているため、何も作用していないかのように見える。しかし、原理的に見れば、そうではない。物質は、原子核と電子との授受によって、平衡を保っている。このような原理は、全てに適用され、それによって、全てが存在しているのである。

物質は、基本となる中心とその対象が、授受作用によって存在している動的なものである。それゆえ、物質は、天宙の根本原理的な存在であり、粒子ではない。また、物質の要素は、最終的に、熱に変換される。それは、科学によって証明されている。つまり、物質の要素である電子を熱子とすることで、原理を新しい世界へと進展させることができる。この熱子の世界を知ることができれば、科学は、神様の原理と一つになり、最高の文明をもたらすことになる。

神様ご自身が、科学原理の中心であるため、この世界は、科学の世界であると言うことができる。それゆえ、神様は、人々に科学的探究をさせ、ご自身の能力を示されているのである。人々が、科学の恵沢を受けているのは、遍在されている神様が、全ての原理をご存知であり、ご自身の能力を発揮されているからである。つまり、現在の科学は、全知全能の神様が遍在されているということを示している。また、このような神様であることは、宗教においても同様である。従って、科学世界と宗教世界は一つになり得るのである。

神様が、天の世界を物質で表現しようとされたのが、地上世界である。それゆえ、地上天国の外的な基盤は、科学によって築かれるのである。人が地上天国を築く目的は、神様を喜ばせることにある。

私は、最高の宗教家と最高の科学者に対して、これを書いている。この世界が存在するのは、地上天国、即ち、理想世界を実現しようとする目的があるからである。その目的を果たすために、悪が分立され、天と地が一つになることを望みながら、これらの事を述べている。特に、最高の宗教家は、天を通して理解して欲しい。結局、これが真実であると明確に知ることができ、さらに、皆が一つの目的に向かうべきであるということが分かるであろう。

神様は、人を中心として、世界が一つになり、天宙全体が完成することを理想とされている。従って、この世界を分断させることは、神様の理想ではない。神様は、最初から、人が中心となるように、この世界を創造された。人は、これを知り、理想的な義の生活をして、天の愛に対する美の第一対象となり、第二対象である地上に、天国を築かなければならない。つまり、天地創造は、人を中心として完成するのである。

人は、神様の対象であるため、神様の体のような立場であると言える。それゆえ、人が復帰され、理想世界となれば、人は万物をとても大切に思うようになる。こうして、人は、万物の霊長として、本来の価値を現し、完成するのである。このように、人は、完成を目指していかなければならないために、悪なる世界の中にあっても、愛、美、義、善を学び、それらを高めてきたのである。


21-11 原理世界を復帰するために信仰が必要になった

人が堕落する前は、神様が存在するのは当然であったため、信仰を必要とはしなかった。信仰が必要になったのは、人が堕落したからである。つまり、神様は、人に信仰心を与え、堕落する前の本来の原理世界を復帰しようとされているのである。それゆえ、人は、信仰という概念を持っているのであり、その信仰によって、理想を抱いているのである。原理を取り戻さなければ、人は、原理的存在として完成することができない。そのために、宗教が始まったのである。

人は、堕落によって、非原理的存在となったため、その霊人は、神様の居られる原理世界においては存在する価値が無い。そのため、非原理的な霊人たちの世界が作られた。それが、地獄である。しかし、神様は、創造主としての責任を持っているため、非原理的存在を復帰しなければならない。それを成すために、人々と地獄の霊人たちに対して、原理世界に復帰することのできる道を開かれたのである。これが、信仰の始まりである。それゆえ、信仰者は、原理世界を目指していかなければならない。しかし、非原理世界では、それが非現実的な世界のように思われる。非原理的立場に立っている者は、非原理世界を現実的な世界だと思っているが、それは間違いである。

人々は、超自然的とでも言うような、非現実的なことを信じるのが、信仰だと思っている。それは、未だに、信仰の定義と起源を知らずにいるからである。信仰というのは、非原理世界の中で、原理世界を探し求めるものであるが、非原理的立場に立っている者から見れば、原理世界が非現実的に感じられるため、大きな誤解をしているのである。

もし、人が堕落していなければ、地上天国や天上天国は、現実の世界となっていた。地上天国は、地上の信仰者が目指すべき調和の世界であり、人が完成して生きるところである。それが、死後も継続して、霊人の到達するところが、天上天国である。宗教の目的は、この世の人々にとって、喜ばしいことなのである。

この世界は、ただ、非原理の主人であるサタンに支配されているだけであり、この地球自体が、非原理になったのではない。この地球は、他の天体と同様に、原理によって運動を維持している。つまり、地上は、原理によって完成しているが、ただ、人だけが、非原理的存在によって支配されているのである。しかし、神様の目的は、非原理的な人々を処置することではなく、非原理の主人であるサタンを処置することである。つまり、サタンだけがいなくなれば、神様が望んでこられたように、原理だけが残り、それに全てが帰順するようになるのである。

神様は、サタンを屈服させ、人々をサタンの主管下から救い出そうとされている。そのため、サタンは、人々を逃さないように道をふさぎ、神様に対抗しているのである。しかし、全ての人々が、神様を信じさえすれば、サタンは、自然に、神様の主管を受けるようになる。また、本来、人はサタンまでも主管できるということを、サタン自身がよく知っているため、人がサタンに対して、積極的にその権限を示すならば、サタンは人から離れ、本来の立場に戻らざるを得ない。さらに、全ての人々が、堕落原理を知り、原理世界を取り戻せば、サタンとは反対の立場を取るため、サタンは自然に屈服するのである。

神様は、宗教を通して原理を示し、人の良心によって、非原理に対抗しようとされた。従って、宗教は、良心を無くしては成立しないのである。こうして、神様は、宗教を起こされたが、人々が、み旨を信奉できず、非原理のサタンに属してしまえば、その宗教を捨て、また別の宗教を起こすことによって、原理完成の目的を果たそうとされた。これが、様々な宗教が派生していった理由である。また、神様は、宗教を通して、み旨を早く進め、この世界を早く復帰しようとされているが、宗教によって違いがあるために、宗教同士の対立があり得るのである。

神様は、良心的な人々を通して、摂理を教示してこられた。それが、預言者と呼ばれる人々である。こうして、神様は、世界の未来に対する宗教的な預言に責任を持って、この非原理世界に、摂理を展開してこられたのである。

ある人が、宗教を通して、神様を信仰するようになったということは、神様が、その人を復帰されたということであり、それと同時に、その人が原理完成への路程を出発したということである。このような事が、人類歴史の中で繰り返されてきたのである。その中で、神様の摂理の基盤として選ばれたのが、ユダヤ教であり、ユダヤ民族であった。そして、イエスが、神様の目的を完遂するという責任を背負ってこられたのである。その後、イエスは、キリスト教を中心とする路程を通して、原理を復帰しなければならなかった。しかし、今まで人々は、その路程の意味が分からなかったのである。

原理が解明されなければ、誰もそれを知ることはできない。それゆえ、私は、原理を解明し、ここで、その原理を述べてきたのであり、また、イエスが来られた理由や理想論も、それらが原理であるために紹介したのである。キリスト教の信徒が、この原理を知らなければ、キリスト教は、神様のみ旨を成就させることができない。従って、まず、原理を知らなければならない。

信仰の目的は、神様のみ旨に協力し、原理世界を築くこと、つまり、原理を完成させることである。従って、それを実現させる過程が、この地上に見られるようになる。それは、原理と非原理が、世界的に分立されることであり、また、人類歴史の始まりの形態に戻ることである。これらが、神様の摂理の目的である。

今の信者たちは、この世が、原理世界ではないことを知っている。人は、この地上で堕落したため、この地上に原理世界である地上天国を築き、創造目的を完成させなければならない。


21-12 基本原理とは

ここで述べている全ての原理が、科学的視点と合っているのは、科学が、その原理を明らかにしようとしてきたからである。今、この世界が、原理世界の入口に到達しようとしていることを知らなければならない。

この地は、原理によって創造されたため、絶対に無くなることはない。この地の全ては、そのまま完全に、サタンから引き継がなければならない。サタンは、先行しようとするが、結局は神様に渡して、後には神様に屈服することになる。それゆえ、後の世界がどのようになるかは、理想論を知らなくても、サタン側の動向を見れば分かることなのである。

私が既に述べた理想論の中に、基本原理がある。理想世界というのは、原理世界のことであるため、世界のどこであっても、原理を離れたところには、理想、愛、美、義、善などは無いのである。理想世界では、自由であり、原理を中心として発展する。人は、原理を完成させるために、生活の中で、み旨に協力していかなければならない。これが、生涯の課題である。

基本原理とは、存続するための原理であり、それは、相対的な立場から、対象として完成し、中心と授受することである。この基本原理の目的は、中心と一つになることである。最終的には、天と地が授受することのできる回路を完成させ、神様と人と万物が、一つにならなければならない。


21-13 盲目的信仰を離れて原理を完成させるべき理由

今までの信仰は、盲目的であったが、これからは、原理を追求すべき時代となるため、その非科学的な盲目的信仰を離れなければならない。宗教が盲目的信仰であったのは、今までが非原理的であったからだと考えられるが、今後は、そのような信仰を超えることのできる時代となる。従って、我々は、神様がこの世界を科学的に運行されているということを知らなければならない。

今まで、超常現象だと思われてきたことも、原理世界となれば、それが科学的に証明されることになる。今後、そのような原理世界になったとしても、それまでの文明は無くならず、神様の理想が、地上に現れるようになる。それゆえ、科学は、神様を中心として発展するのである。

今の信仰者が知るべきことは、イエスは雲に乗って再臨されるのではなく、人として来られるのであり、その方を通して、原理を完成させなければならないということである。つまり、信仰者は、再臨主を通して、神様の相対的存在となり、さらに、神様の対象となって、神様の愛を受け、美を返さなければならない。受けた愛を完全に返してこそ、神様に対して、原理を完成させることができる。こうして、神様のみ旨をこの地で果たし、それを神様の栄光とすることが、人生の最高の目的である。このように、神様は、対象と授受する回路を創造されたが、自分の対象に与えるということは、第二の自分に与えるということなのである。

神様が再臨主を送られるということは、人が神様の愛を受けることができるようになるということである。しかし、神様は、むやみに愛を与えることはできない。何故なら、対象となった人にのみ、愛を与えなければならないからである。

この地上において、自分が、第二の自分である対象を完成させることによって、その対象と授受することができるようになる。そして、自分が対象に愛を与えれば、その対象から美が返ってこなければならない。


21-14 原理世界では皆が家族

全ての人々は、神様を中心とする家族として、互いに授受することのできる原理世界を目指さなければならない。これは、キリスト教信者の使命が大きいのであるが、他の宗教の信者にも使命があり、また、科学に関係する人々にも使命がある。特に、神様の祝福を受けた民族と国家は、世界のために、また、み旨を成就するために、原理世界を築き、その喜びを神様に返さなければならない。そのために、神様は祝福を与えて下さったのである。

原理を中心とするところには、神様が居られるため、そのような世界では、皆が家族である。また、近年、国際結婚が多くなってきたのは、神様が、人種の差別を無くそうとされているからである。


21-15 宗教に依らず原理に依るべきである

我々は、地上での目的を果たし、永生の基盤を立てなければならない。それは、根本である創造原理が、そのようになっているからである。また、今までは、宗教を通して、神様に帰ろうとしていたが、これからは、直接、神様に帰ることのできる路程を探し出さなければならない。そのために、我々は、科学的な原理を中心として、自由に天宙と授受しながら、地上での使命を全うし、また、天の目的を完成させるために、互いに協力しなければならない。我々は、ここで、ようやくこのような原理に出会ったのである。決して、この原理から離れることがあってはならない。この世界を地上天国とするために、各自が、神様の分身として、責任を果たさなければならない。


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