19 再臨主を中心とする理想論

19-1 神様は再臨主を通して愛と美を授受される

再臨主は、堕落していない存在でなければならない。そのような再臨主が現れてこそ、神様は、創造本然のみ旨を成就するための第一歩を踏み出すことができる。それゆえ、人々だけではなく、神様も、再臨主の出現を待ち望んでおられるのである。

再臨主は、既に、肉身を持って地上に来られている。神様は、再臨主が現れれば、この地上に、神様が愛することのできる世界を展開されるのである。従って、今、この世界が堕落していたとしても、神様は、再臨主を通して、この世界を愛することができるようになる。つまり、再臨主は、神様に代わって、この世界を愛されるため、神様の創造本然の愛は、天宙のどこよりも、再臨主の居られるところに与えられるようになる。それゆえ、世界の全てが再臨主と一つになれば、神様は、再臨主を通して、その全てを愛することができるのである。

全ては、神様の愛を受けることによって、完成へと向かうことができる。従って、その圏内では原理が復帰され、そこが地上天国の基盤となる。再臨主の時まで、神様が摂理を進めてこられたのは、人々を再臨主につなげて、愛を与えるためである。従って、人々は、再臨主と一つにならなければならない。しかし、それができなければ、無慈悲な審判を受けることになる。

神様が、イエスを通して、人々を無条件に愛されたのは、再臨主によって、人々を復帰するためである。再臨主は、その愛の実を刈り取る存在であるため、再臨主の懐に入ってこそ、神様の愛を受けることのできる資格が得られるのである。

人は、神様の愛を受けるほど、再臨主を通して果たすべき責任を負うことになる。しかし、再臨主を愛し、神様と授受することのできる対象とならなければならない。それが、終わりの日に生きる人々の義務である。従って、神様の愛を報酬だと考えてはならない。神様の愛は、その人自身を完成させるための愛である。その愛を受ければ、美を返すことが原理であるため、再臨主を通して、神様に美を返さなければならない。そうしてこそ、創造理想が展開され、自己を完成させることができ、それが基盤となって、根本的な生命が保障されるのである。再臨の時には、このような原理が立てられるため、神様は、再臨主を通さなければ、人を愛することができないのである。

イエスは、無条件に愛の種を蒔かれた。その実を刈り取るのは、再臨主である。それと関係のない者は、言うまでもなく、神様から憎まれるようになる。神様が、イエスを通して、高貴な愛を人々に与えられたのは、愛の基準を高めて、多くの愛を実らせ、その創造本然の愛を世界に広めるためであった。こうして実った愛は、再臨以降に刈り取られるのである。

神様は、再臨以降、目的も無く人を愛されないようになる。また、神様の対象として、神様から愛を受けた者は、再臨主を通して、神様に美を返さなければならない。こうして、授受の回路が作られ、神様と一体になる愛の理想が完成し、原理が復帰され、再創造理想の世界が展開されるのである。

今まで神様は、人を無条件に愛してこられたが、再臨以降は、神様を愛さない者を、神様も愛することはできない。今まで、敵をも愛するように言われてきたのは、イエスの目的が、無条件に愛を与えることであったのであり、また、敵に愛を与えることによって、愛を蘇生し、その愛を繁殖させるためであったのであり、さらに、サタンよりも深い愛を与えて、サタンから愛を受けないようにするためであった。それゆえ、イエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音書5章44節)と言われたのである。また、「もし、だれかがあなたの右のほおを打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイによる福音書5章39節)と言われたのも、同様の目的であった。

人の生命の根本は、愛である。それゆえ、神様は、人々に愛を与えて蘇生させ、その人々を取り戻し、悪の繁殖を防いで、早くみ旨が成就するようにされたのである。その基盤の上に、再臨主が来られたならば、サタンは敗北することになる。つまり、人が、再臨主を通して、神様から愛を受けて美を返し、善を成せば、原理が完成し、神様と人が一つになる創造理想が実現するのである。こうして、愛と美を授受し、生命を永遠に維持してこそ、堕落のない世界を成すことができ、全てを生かすことができる。ここで、理想論を述べているのは、このような神様の目的を明らかにするためである。


19-2 再臨主に従う者が取るべき姿勢

再臨主に従う者は、対立する者に対して、昔のように愛を与えるのではなく、それとは反対の姿勢を取らなければならない。何故なら、神様がイエスを通して無条件に愛を与えられたのは、種を蒔いておられたのであり、再臨主は、その実を収穫する方であるため、再臨主に反する者を愛せば、実を収穫すべき時に、種を蒔くようなものだからである。言い換えれば、神様側の者が、サタン側の者に頬を打たれたなら、愛で対応するのではなく、相手の頬を打ってでも、義を立てなければならないのであり、神様側のアベル的な者が、サタン側のカイン的な者を従順にして、神様が受け入れられる者に復帰しなければならない。時代がそのような方向に流れているのは、み旨成就の時期が近づいていることを表している。

しかし、再臨主に従う者たちは、各自が、天の父、天の母の分身として完成しなければならない立場であり、まだ不完全であるため、むやみに手を上げて人を打つことのないように、注意しなければならない。もし、み旨の中にいる人を打てば、天の父、天の母の体が、罪を犯した結果となるため、イエスの説かれた愛によって、兄弟のように対さなければならない。もし、自分が、み旨を立てようとするときに、忠告を受けたならば、その人を、み旨に反する者だと思わずに、その忠告に応じて、み旨を立てなければならない。そして、感謝の意を込めて、み旨のために努力しなければならない。

今までの歴史において、悪の勢力に支配されてきた信徒たちは、ありとあらゆる侮辱と圧制を受け、軽視されながらも、神様のみ旨を立て、それを成就させるために、愛を持って譲歩してきた。しかし、再臨以降は、善が悪を主管する時代なのである。その時代は、愛の収穫の時期であるため、我々は、その収穫と同時に、み旨を進めていかなければならない。

また、我々は、再臨主のみ旨を中心として、相対格の人々に対さなければならない。つまり、み旨を中心としてこそ、愛を与えることができるのである。従って、み旨と関係のない者には、むやみに愛を与えてはならない。このような原理となっているのは、善を成就するためである。そうしてこそ、神様に対して善なる者となり、神様が喜ばれるのである。そうでなければ、み旨から外れた行動となるため、各自が自分の立場を確固たるものにしなければならない。再臨以降は、み旨から外れた者にとって、無慈悲な時代となるのである。

各自は、受けた愛に対して現した美の価値に応じて、報酬を受け取るようになる。それゆえ、義を立て、良心に従って、み旨を進めなければならない。こうして、自分が善となり、さらに、相対格の存在を定めて対象とし、その対象を善とすれば、神様と自分と自分の対象が一つになる。これで、創造原理による理想の善が成就したと言えるのである。

この理想の善が成就した後には、事業(仕事)を通して、社会に善を展開し、さらには、天宙にまで、善を展開することができるようになる。このように、自分が、天宙を喜ばせることによって、創造の時から人に与えられていた原理的な重要課題を完成させることができるのである。


19-3 神様は天の父母として居られなければならない

神様と人が、完全に愛と美を授受しようとすれば、再臨主を通して、天の父母に仕えなければならない。つまり、神様は、天の父母として居られなければならない。この天の父母と一つになることが、創造原理による理想の善を成就するための根本的な基礎となる。しかし、人には肉身の父母も存在する。この肉身の父母が、天の父母を完全に信奉する立場に立てば、その肉身の父母によって生まれた子は、肉身の父母と一つにならなければならない。それが、創造原理の最も重要な点である。従って、天の父母を信奉するように、肉身の父母を尊び、孝行しなければならない。このような創造原理があるために、儒教においても、孝道こうどうが教義の中心となっているのである。

我々は、神様の愛を受け継ぎ、繁殖しなければならないが、そのためには、まず、天の父母と一つになるように努力し、また、肉身の父母のために努力し、その次は、自分の対象と一つになり、全体が一つになるようにしなければならない。それが、人生において最も重要な使命である。

このように、天の父母、肉身の父母、夫婦(子女)が一つになり、分立しないというのが創造原理である。こうして、孝子、忠臣となり、再臨主を通して、天の父母を信奉してこそ、自己が完成し、天に対して、仲介者の立場に立つことができるのである。

特に、この地上で、肉身の父母になった立場とは、どのような立場であるのか。理想論において、父母と子女は、心と体のような相対関係になっているため、自分が肉身の父母の立場となれば、自分は第二の天の父母のような存在となり、子女は第二の自分のような存在となる。従って、自分の家庭を築き、理想論の三位格(天の父母、自分、子女)のかたちを完成させなければならない。これが、再臨主に従う者の最初の使命である。それゆえ、肉身の父母は、天の父母の身代わりとして、その使命を果たすために努力すべきである。もし、肉身の父母の行いに誤りがあれば、子女は、その誤った行いを指摘しなければならない。

この最初の使命を果たした者は、事業(仕事)を通して、社会に対することができると同時に、まだ、その使命を果たしていない者に対して、何らかの忠告や指導をすることができる。つまり、次の使命は、自ら中心となって、善を繁殖することである。

再臨主を中心とする原理的な世界には、上述のような理想がある。この理想は、どの家庭、社会、国家においても同様である。我々は、この理想に反する非原理的なものを非難し、義を立てなければならない。不義を放置した者は、相対格の存在を堕落させることになり、み旨を成就できなかった立場となる。従って、誰もが、天のみ旨成就のために、地上の不義を防がなければならない。このような使命が果たされ、理想の完成した時代となれば、人々は天の子女となり、その時代の夫婦は、永遠の夫婦として、また、天の父母の分身として、理想の夫婦となるのである。


19-4 地上の人々によって地上と天が共に完成する

再臨時代の人々は、天の霊人たちが地上で果たせなかったことまでも、代わりに果たさなければならない。つまり、各自は、地上で自己を完成させると同時に、天にいる家族も完成させなければならない立場に立っているため、非常に大きな責任を負っていると言える。このように、地上にいる人々によって、地上と天が共に完成することで、根本的な問題が解決されるのである。それゆえ、天の霊人たちも、この再臨時代を待ち望んでいる。天にいる家族は、この時代に、地上の我々と一つになれば、地上で果たせなかったことを果たすことができる。こうして、再臨主によって、根本的な問題から解放され、天国完成への第一歩を踏み出すことができるため、全天宙は、再臨主に、誠心誠意仕えようとするのである。


19-5 夫婦は天の父母の分身

理想論においては、天の父母を中心とする場合、人は第一対象となり、その配偶者は第二対象となる。ここで、夫になった者は、天の愛を受けるために、美の存在とならなければならない。こうして、天の愛を受けて、天に美を返すことで、善が成就すれば、天の父の分身として、天の愛を持って、第二対象の妻を愛することができるようになる。男性は、このようにしてこそ、原理的な立場に立つことができるのである。これに対して、妻になった者は、夫の愛を受けて、夫に美を返すことで、第二の善が成就すれば、天の母の分身となることができる。このように、善を成就することのできる授受の回路を作ってこそ、理想のかたちが完成したと言えるのである。

このように、夫婦は、天の父母の分身となる存在であるため、互いに、この上なく貴い存在として尊重しなければならない。こうして生まれた子女は、天の父母の分身である肉身の父母を現す存在であり、愛の結果であるために貴いのである。それゆえ、この子女は、天の子女という栄光を得ることになる。肉身の父母は、天の父母の分身として、貴い子女を愛さなければならない。つまり、子女に対する父母の愛は、天の父母の愛を表すものである。

肉身の父母は、子女を思うほどに、天の父母を思わなければならない。天の父母を思う者は、全ての使命を果たすことのできる者であり、手本となる者である。また、人は、天の父母の愛を、最上位の愛としなければならない。そうしてこそ、次に、夫婦の愛が現れ、その次に、子女に対する愛が現れるのである。それらの愛は、別々のように見えるが、一つの愛として、天の父母の愛に帰結しなければならない。それが、理想の愛である。

このような創造原理が中心となっているために、人は堕落したが、家庭を築き、父母となって、子女を愛するのである。そして、愛された子女が、父母に感謝をして孝行し、美を返すときに、善が成就するのである。このように、原理的な立場に立つことによって、父母は喜び、子女は満足することができる。

子女が完全に父母の対象となれば、創造原理を立てることができるため、天の父母と一つになり、理想の善を成就することができる。こうして、人によって、善が繁殖するのである。このような立場に立っている人々は、どれほど貴い存在であろうか。この善を繁殖する人々が、天の理想を実現できる人々ではないだろうか。

天の理想を実現しようとする人々は、再臨主と共に、本来の原理を復帰しなければならない。そのためには、まず、配偶者を求めて父母となり、子女を授かって、家庭を築かなければならない。こうして、社会、国家、世界、全天宙に、原理を立てるのである。従って、終末においては、天の父母を探し求めなければならない。

その天の父母とは、どのような存在であるのかと言えば、再臨主の根本となる父母であり、人が堕落から復帰されれば、サタンまでも主管することのできる父母である。つまり、人が、天の子女となれば、堕落前の本来の主管権を継承することができるのである。ところが、今、天の子女となるべき信徒の誰もが、天の父母のことをよく分かっていない。それゆえ、特別な教示を受けた者たちが、先に一つとなって、再臨主に従い、み旨の路程を出発するのである。

霊人が生命級にまで完全に成長した者であれば、再臨主を知ることができる。つまり、再臨主を探し出すことが、今の信徒たちの重要な使命である。そして、世界から集まって来る信徒たちと共に、地上で理想的な家庭を築かなければならない。このような家庭を、社会、国家、世界に広げ、大家族の理想を実現することが、再臨主に従う者たちの使命である。

この時代は、悪人に対して無慈悲な時代であり、義人と善人に対しては栄光の時代である。この時代に、良心的な人々は解放される。そして、解放された人々は、原理を立て、世に出なければならない。こうして、天の理想のかたちが完成することによって、6千年の歴史が終結し、安息の時代を迎え、永遠の理想が始まるのである。


19-6 唯物論者たちのいう正反合の論理は破綻する

ここで、唯物論者たちのいう社会発展の理由を見てみよう。唯物論者たちは、正反合の論理によって、社会が発展すると主張している。そして、世界では、正反合の過程が変わらずに続くという。しかし、今の世界を見ても、どれが、その論理を示す現象なのか、確実には分からない。それは、未だに、真の原理が分かっていない証拠である。

今、唯物史観は、世界の人々にとって、打開することが非常に困難な問題となっている。彼らのいう正反合による発展の論理では、発展しようとするときに、正に対して反が生じるが、何故、反が生じるのだろうか。それが未知である。発展しようとすれば、必然的に、最終目的に向かわざるを得ない。そして、その目的に到達すれば、それは以前とは別の形態になっている。このようにして、理想の形態を完成しなければならない。しかし、正反合の論理では、目的の到達点が、再び出発点の正となり、反が現れるため、その論理では、発展ではなく、破滅の道を行くという結論になる。そのような意味において、正、反という位置を設定したというのであれば、それは正しかったといえる。しかし、天地創造から、正という存在に対して、反という存在は無いのである。正であれば、その正の中に、蘇生から長成を経て、完成へと向かう真理路程があり、その過程においては変化を見せるが、それは、根本的に変わるのではなく、完成の途中にあるということを見せているに過ぎない。また、正を前提として、反が生じるならば、その反という存在は、本来、無かったということにもなる。人類にとって、この反という存在が、最も重大な問題点である。しかし、今まで、その存在が何であるのか分からなかった。原理を中心とする世界に、反という存在は有り得ない。その存在は、非原理によって生じたものであり、その主人がサタンなのである。

唯物論者たちのいう正反合の論理は、正のみで成立するものではない。反が生じてこそ合となり、その合がまた正となる。従って、正となるための過程が、人類発展史であり、次の発展の原因にもなっている。本来、人類歴史は、原始共生主義を正として出発すべきであった。しかし、原始共産主義で出発したため、それを本来通り、原始共生主義を正として出発したことにしなければならない。

本来の世界は、原理世界である。従って、いつまでも反が存在すれば、目的を完成させることができず、いずれ破滅を招くことになる。それが原則である。もし、発展のために、反が存在するというのであれば、それは、発展過程の中において、正の為になるべきである。そうであれば、反という存在を認めることはできる。しかし、正の目的が達成される時期には、その反という存在は無くならなければならない。それが、原理世界なのである。

原理世界では有り得ないことであるが、堕落によって、反の存在が現れたため、人類歴史が、反から正に向かう路程とならざるを得なかった。従って、神様側から見れば、人類歴史は正反合ではなく、反正合であったと言うことができる。ここでいう反の存在とは、サタンのことである。サタンは、み旨を破壊して、消滅させることが目的である。神様は、それを防いで、み旨を継続し、人類歴史を通して、正の立場を守ってこられた。このように、今までは、正に対して、反が先行する人類歴史となっていた。しかし、本来は正が根本であり、反は根本ではない。つまり、反は、正のように現れた偽物である。従って、奪われた正の位置を取り戻さなければならない。このように、本来の正の位置を反が奪ったために、今まで大難事が続いてきたのである。

では、反の存在は、いつまで存続することができるのか。それは、原始共生主義の形態に戻る時までである。また、反を消滅させることができるのは、正である神様側の存在のみである。つまり、正の存在は、反の存在を完全に消滅させようとするのである。従って、正反合の論理は、唯物論者たちのいう理想の論理ではあるが、それは、破綻するという結論に行き当たる。このような結論になるのは、正反合の論理が誤りであるため、当然であると言える。我々は、彼らのいう正反合の論理に対し、その現実を見極めたため、ここに、その末路を決定する。端的に言えば、反は消滅し、正だけが残る。これが天の原理である。

正の位置は、堕落前の位置であり、出発点となるため、人類歴史が、その出発点に向かわなければ、神様は居られないという結論になる。つまり、神様の目的は、奪われた正の位置を取り戻し、正の存在が、正の位置から出発することである。それは、正である神様側の存在によって果たされるため、結局は、神様の目的通りに、原始共生主義の形態になり、神様を中心とする世界になるのである。

従って、キリスト教信徒たちの使命は、天のみ旨と一つになり、神様を中心とする世界をつくることである。そのみ旨を知った我々は、心を一つにして、サタン側に立ち向かっていかなければならない。


19-7 歴史の発展段階

唯物論者たちのいう歴史の発展段階は、次のようになる。
(1) 原始共産主義時代
(2) 氏族社会主義時代
(3) 奴隷主義時代
(4) 封建主義時代
(5) 資本主義時代
(6) 帝国主義時代
(7) 社会主義時代
(8) 共産主義時代

彼らは、人類発展史を上記のように捉えているが、何故、このような発展をするのかという根本的な問題を未だに解いていない。端的に言えば、このような発展段階を見せているのは、私が論じているように、歴史が反から始まったというのが、その理由である。

では何故、原始共産主義時代から氏族社会主義時代になったのか。彼らは、この原因も未だに分かっていない。それは、サタン側に対する対策として、神様が氏族を定めて、人々を分立させ、互いに通じないようにされたため、自然に氏族社会主義時代となったのである。

次に、氏族社会主義時代から奴隷主義時代になったのは、神様とサタンが、人を奪い合っていたからである。それゆえ、神様側の人々とサタン側の人々は、怨讐関係になった。結局、正が反を支配するようになり、神様側の人々が、サタン側の人々の財物を取り上げるようになった。それが、長い歴史を通して、贈り物という風習になった。こうして、神様は、サタンから人と財物を取り戻していかれたのである。

次に、奴隷主義時代から封建主義時代になったのは、神様とサタンが、互いに人々を確保することで、人々が分立されたからである。このような封建主義時代において、サタンは、神様に通じる道を断つことで、自分の立場を維持しようとした。

しかし、この封建主義時代が終わり、資本主義時代になったのは、神様とサタンが、互いに世界を支配しようと、先に資本を取ろうとしたからである。この資本は、奴隷主義時代から封建主義時代にかけて蓄積されたものであり、その後の時代は、資本を中心として、全てが展開されるようになった。

こうして、資本を中心とする活動が活発になり、その勢力は、自然に帝国主義の方向に向かっていった。そして、資本によって、他国を支配し、世界までも左右する時代となった。

唯物論者たちは、今の時代が社会主義時代だとし、それは、共産主義時代に向かうための時代だという。これが、神様の成就しようとされる将来の目的であるため、歴史もそのような方向に進むのである。

神様は、歴史を正から始めようとされた。しかし、サタンによって、歴史が反から始まってしまった。このように、サタンは、神様の計画を真似て、先に歴史を展開したため、反が先行する歴史となったのである。しかし、本来は、正から始めるのが原理であるため、たとえ、今後、共産主義の方向に向かっていくとしても、その後、神様は、本来のかたちを取り戻そうとされる。つまり、サタンに対抗しながら、キリスト教社会主義へと進め、その次に、世界を一つとして、キリスト教共産主義へと向かうようにされるのである。従って、世界は、原始共生主義時代の形態に戻ることになる。これは、必然的な路程であり、本来の出発点に戻るということである。

従って、キリスト教国家は、いつまでも、現状のままであってはならない。それゆえ、私は、原理的な観点から見て、歴史がキリスト教社会主義時代を経て、キリスト教共産主義時代へと向かっていくことを、ここで明らかにしたのである。また、キリストの理念を基本とする原理的な主義が共生共義主義であり、神様を中心とする理想世界が円和世界であるが、神様が居られる以上、必然的に、その方向に向かうことになる。それゆえ、サタンは、結局、神様に屈服し、神様のみ旨を助ける立場となって、本来の原理的な存在目的を果たすことになる。

神様は、上述の事を原理的に実行される。その時代が、再臨時代である。従って、今、世界のキリスト教信徒たちは、神様のみ旨に従い、再臨主を迎えるための準備をしなければならない。

また、再臨時代が近づいているため、サタンは、それよりも先に、強引に神様の真似をしようとする。それが真相であるため、キリスト教を中心とする国際連合は、断固として対策を講じなければならない。

唯物論者たちのいう発展史も一理あるが、それは偽りの真似事であることを知らなければならない。では、神様を中心とする復帰歴史の発展段階と、唯物論者たちのいう歴史の発展段階を比較してみよう。

復帰歴史の発展段階  唯物論的な歴史の発展段階
 サタン分立時代(原始共生主義社会) 原始共産主義時代、氏族社会主義時代
 蘇生旧約時代(氏族、民族、国家) 奴隷主義時代、封建主義時代
 長成新約時代(国家、世界) 資本主義時代、帝国主義時代
 完成成約時代(世界、天宙) 社会主義時代、共産主義時代

表のように、双方の発展段階を比較すれば、それぞれ類似した段階を経てきたということが分かる。そして、現在の動きとしては、これら二つの陣営が対峙し、勝敗を分ける段階に入ったと言える。つまり、この勝敗が決まる前に、平和は来ないのである。従って、今は、キリストの理念から外れたとしても、国際連合は責任を持って、この戦いに勝利しなければならない。そして、将来においても、キリストの理念を持つ英米を中心とする国際連合は、大きな使命を果たしていかなければならない。


19-8 神様のみ旨を知った信徒たちの使命

神様が、英米などの国家や、ユダヤ民族を祝福されたのは、終りの日のみ旨を迅速に進めるためである。その目的は、全てが一つになって、イエスの理想とする最高の世界を、この地上に実現することである。そのために、イエスは再臨されるのである。従って、我々は、再臨主を迎え、神様のみ旨を信奉し、根本的な復帰を果たすために、全てを動員しなければならない。もし、み旨を信奉できない者がいれば、神様は、その者の存在位置を変えざるを得ないのである。

それゆえ、我々は、復帰路程を行きながら、世界の人々を兄弟とし、原理を中心とする大家族を築くことによって、父母を世界的に復帰し、父母のいない子の立場から、父母のいる子の立場へと変わらなければならない。こうして、地上天国を築き、新たに出発するのである。

そのために、神様は、今のキリスト教からサタンを分立しようとされる。神様が居られる以上、必然的に、そのような傾向が現れてくるのである。従って、神様のみ旨を知った者は、天の子女の立場を復帰して、サタンに対抗するために、早く集結しなければならない。これを成すことが、キリスト教の使命である。そのみ旨が成就することによって、キリスト教からサタンが分立され、全世界のキリスト教が統一されるのである。これができなければ、悪なるサタンは、我々に向かって対立を続ける。それによって、神様のみ旨が延長されるという恐ろしい結果を招くことになる。

従って、キリスト教信徒は、民族と国を超え、み旨を中心として一つになり、サタンを根絶しなければならない。そのためには、各自が、一つの目的に向かい、キリスト教は、社会を動かす原動力となり、未解決の問題を全て解決して、神様の目的を達成させなければならない。こうして、サタンを完全に追放し、永生主義を掲げ、地上天国を築き、再臨主と共に天と一つになり、共に生きる時代に向かうのである。これが、人類の望んでいた理想であり、歴史の目的であり、神様とイエスの目的である。

今のキリスト教信徒は、このような重要な立場にあることを知らず、現実社会と距離を置いてきたため、神様の喜ばれる立場であったとは言えない。しかし、今こうして、自分たちの立場が分かったのである。従って、神様のみ旨を知らない立場であったことを受け入れ、観念的な信仰を捨て、神様のみ旨に従わなければならない。

そして、世界の人々は、このみ旨を知り、兄弟として民族と国を超え、世界的な天国の建設を目的として活動し、世界的な平和を実現しなければならない。これを完全に果たしてこそ、基本となる創造目的が完成し、神様は全世界を主管することができるのである。それゆえ、神様のみ旨を知った信徒たちは、世界の人々に、それを伝えなければならない。神様が摂理を進めてこられたのは、上述のような理想を全世界に伝え、それを完成させるためである。


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