18 相対的関係から見た理想論

18-1 相対的関係を持てないものは存在しない

神様は、天地創造の時、全ての被造物が相対的関係を持つことができるように創造された。それゆえ、被造物の中に、相対的関係を持つことのできないものは存在しない。全ての存在は、直接対することのできる相対として、或いは間接的な相対として、それぞれの位置を定めている。その相対との関係によって、自体を完成させることのできる作用が生じるため、天宙の存在は、互いに相対を必要とするのである。


18-2 授受できる対象があってこそ理想を実現することができる

自分が、ある目的を果たそうとすれば、まず相対を定め、その相対を、授受することのできる対象にしなければならない。そのためには、その相対が、自分の示した条件を受け入れ、それを満たす必要がある。このような過程を通過した相対が、作用を起こすための授受の対象となるのである。

どのような存在であっても、円満であるためには、授受することのできる対象が必要である。もし、ある存在が、対象となる相対を見つけることができなければ、その存在の価値は無くなるのである。また、相対は、中心的存在と授受することのできる対象の位置に立ってこそ、その価値が現れ、理想世界が展開されるようになっている。つまり、全ての存在が、完全な授受をするようになってこそ、理想世界が実現されるのである。

たとえ社会や国家のような存在であっても、理想を実現することのできる対象の位置を離れては、発展することができない。従って、どのような存在であっても、理想とするものに対して、対象の位置を取らなければならないのは当然であると言える。このように、理想と、その対象である存在は、互いに必要であり、切り離すことのできない関係にある。我々の使命は、対象の位置に立って、理想を実現することにある。それゆえ、我々にとって、最も重要な問題は、理想に心を向ける刺激と衝動を維持することである。もし、理想に心が向かなければ、我々は、理想を実現することのできる道を失ったも同然である。我々が、理想に対して対象の位置を取り、理想に心を向ける刺激と衝動を維持してこそ、理想を実現することができるのである。

我々が理想を目指し、向上しようとするのは、ある存在が、我々には知り得ないように、心を通して、理想を目指すように作用しているからである。その作用によって、我々が刺激と衝動を感じるとき、その存在と我々との関係が、不可避的であることを体得するようになる。我々は、そのとき、既にその存在の第二存在格となっているのであり、その存在の要求に応じることによって、より向上することができるようになっている。それゆえ、その存在の要求に応じて進んで行くほど、より興味深い事実を知るようになり、更なる幸福感を得ることができるのである。

人は、創造原理によって、完全になるよう創造された。既に、その原理的な力が、我々に作用しているため、我々は、その力の要求によって、対象としての理想と価値を追求するようになっている。このように、原理と関係を持った我々が、対象として完成すべき位置を離れるならば、それは、原理に反することになる。そのため、対象の位置から離れようとすれば、必然的に良心が働くのである。こうして、原理からの脱線を防ごうとするのが、良心作用である。

上述のように、我々の人生は、我々自身ではない別の本体を中心としている。そして、我々は、その中心の対象として完成しなければならない。それが、理想であり、幸福の基本である。人は、神様の対象となることを基本として創造された。それゆえ、神様が人に要求されることは、神様に対して、完全な対象としての価値を持つことである。この要求は、心を通して、力として作用する原理的な要素であり、この要素によって、皆がつながっているのである。従って、誰もが、完全な対象になろうとする共通の目的を持っている。

自分が、神様の完全な対象となり、さらに、自分の周囲の存在を相対とし、それらを授受の対象にしてこそ、神様の対象としての本来の価値を持つようになる。これが、絶対価値である。こうして、神様と、神様の対象となった自分と、自分の対象によって、三位一体の関係を築くことが、本来の創造原理である。

この原理の上に立つためには、まず、自分の肉身が良心を指向していなければならず、次に、神様に対して相対的立場を取り、さらに、神様と授受することのできる対象となって、完全に神様と一つにならなければならない。これが、神様が臨在することのできる創造原理の基盤となるのであり、この基盤を立てることが、人の最高の理想となっている。そこから、幸福や喜びなどの全てが始まるのである。


18-3 良心と肉身を一つにすべきである

人の最高の喜びとは、神様と共にあることであり、また、原理によって万事を理解することである。そこに到達したとすれば、そこが求めていた境地であると言える。つまり、神様の創造原理や復帰原理などを知ることができれば、その時から希望を持って、神様と共に、理想に向かうことができ、また、幸福を感じることができるようになるのである。

人は、その境地に到達すべきではあるが、そこで問題になるのは、良心が、それを急がせることである。これが、良心と肉身が合わずに離れていく原因となっている。もし、不満を感じているとすれば、良心と肉身にずれが生じているのであり、そのずれが大きくなるほど、不満も大きくなるのである。幸福を感じようとすれば、まず、良心と肉身が一つになっていなければならない。その上で、ある目的を果たしたときに、幸福を感じることができるのである。

このように、良心と肉身が一つになり、肉身が神様の要求を満たすことができたならば、そのときに、その要求を原理的に成就させたということになる。これは、神様が創造された本来のかたちであり、善なる行いであるため、そのときには、神様が臨在できるようになっているのである。これを継続することのできる生活が、理想の生活である。

善なるところには、神様が共にあり、そこでは神様から幸福の要素を受けることができる。しかし、人は、善なるところを失ってしまった。従って、それを探し求めなければならない。良心作用によって、その目的を果たそうとせずにはいられないのである。


18-4 人は原理的な位置に立つべきである

各自が、神様の要求を満たすことができるようになれば、完成した対象としての位置を神様から与えられる。それは、原理的な位置に立ったということであり、これこそが幸福な事だと言えるのである。

人は、本来、このような原理的な位置から出発すべきであった。しかし、人が堕落したことによって、原理的な位置を失ってしまったのである。それゆえ、人は、神様の対象となって、原理的な位置を復帰しなければならない。

このような問題は、非原理的なサタンによって生じたのである。しかし、我々は、未だに、このサタンのことをよく知らずにいる。自分自身の不足と至らなさに、ただ嘆息たんそくしているのは、サタンによって、ひどく蹂躙じゅうりんされ、感覚が鈍っているからである。このように、人は、天の対象としての位置を失ってしまったが、良心は、常に、その本来の位置を取り戻すように作用している。それゆえ、誰であっても、良心に従っていれば、善の方向に進み、本来の位置を取り戻すことができるのである。


18-5 各自が唯一無二の存在である

人は皆、唯一無二の性質を持つ個性真理体である。それゆえ、神様の対象となり、神様と一つになれば、その人だけが持つ個性を生かすことができるのである。人が、そのような存在として完成すれば、その基盤の上に、成就すべき目的が与えられる。その路程は、原理的であるため、善なるものである。このような位置にあるとすれば、それは、神様と相通じることのできる幸福な立場であると言える。

また、人が自己中心的になりやすいのは、自分の個性を中心として、理想を実現しようとするためである。それゆえ、人は、堕落しなかったとしても、自己中心的であることは事実であり、それは、自分が善なる存在であるという本心の現れなのである。しかし、人は完成すれば、全体目的のために、協力するようになっている。


18-6 自分の相対を対象として完成させなければならない

自分が理想を実現しようとすれば、相対となる存在が必要である。さらに、その存在が、自分と授受することのできる対象となれば、それは、その対象と共に、自分の理想を実現することができるようになるということである。それゆえ、対象が存在するということ自体が、自分にとっては、大きな喜びとなるのである。

人は誰でも、善なる者を対象にしようとし、その対象を自分に似せようとする。そうしてこそ、対象を完成させることができ、さらに、自分の目的を早く達成させることができる。

相対となっている存在を対象として、自分に似せようとするのは、善なる自分と一つになれば、善なる存在になれるということを宣布しているに他ならない。それは、神様の善を現すという役割が与えられるからである。こうして、自分という存在は、神様の対象として、自分の対象を神様につなげようとするのである。

ここで問題となるのは、まず自分自身が、神様の完全な対象となっていなければならないということである。そのためには、良心と肉身を一つにして、自分自身が善なる存在とならなければならない。その上で、第二の自分である対象を完成させるのである。

例えば、ある男性が、神様の第一対象となっていれば、その男性は、相対である女性を自分の対象にしようとする。このような創造性によって、神様の第二対象が立てられるのである。本来は、このような原理となっているため、独身生活というのは、非原理世界では有り得るが、原理世界になれば、それは原理に反しているという結論になる。

次に、自分の事業(仕事)を対象として完成させなければならない。そのように事業を推進してこそ、善なる人々の事業となり、神様が求める事業となるのである。神様は、このような事業を通して、対象となる人々が増えていくことを望まれている。こうして、人々を神様につなげることのできる道が開かれるのである。


18-7 神様の対象となっている人が最も重要である

神様と人が一つになれば、神様は人を通して、万物世界を一つにすることができ、さらには、天宙までも一つにすることができるのである。このように、人の立場が最も重要であり、人が神様の対象であってこそ、神様は理想を展開し、善を現すことができるのである。

また、人の上には天、下には万物、右には家庭、左には社会があるため、人によってのみ、それらが一つになる円和世界を成すことができる。その世界こそ、神様が理想とされる世界である。それゆえ、人は、神様の対象として善を行い、それを家庭や事業体へと展開しなければならない。そうしてこそ、神様の対象として完成した者だと言えるのである。神様は、世界の全ての人々が、そのようになることを望まれている。世界に善が展開されなければ、神様が世界を創造された意味は無いのである。

神様が望まれていることは、性が分立され、個性が完成し、神様の対象となる過程を通して、人が完成することである。この完成した人によって、神様と全天宙が一つになれば、それが善の世界となる。つまり、神様は、神様の対象となった人を通して、その相対である全天宙に、善を展開しようとされるのである。

人は、神様と天宙万物の間に位置するため、第一存在は神様、第二存在は人、第三存在は天宙万物となる。神様は、一人一人の個性によって善を展開し、天宙万物を主管しようとされる。従って、人の存在しない天宙万物は有り得ない。つまり、ローマ人への手紙8章19節に「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」と記されているのは、天宙万物の中心であるべき人間が堕落したからである。これを復帰しようとするのが、神様の摂理である。

以上のような原理を知った我々にとって、神様の相対となり得ることが、どれほど有難いことであろうか。さらに、神様の対象となることができれば、神様の願いが、我々の生きる目的となるのである。

人は、まず、神様の相対とならなければならない。このような立場に立つとき、「神様は人を利用するのか」と考えてはならない。神様が人に要求されることは、神様の目的を達成するためではあるが、それは、結局、人に対象の位置を与えて、人を完成させるためなのである。

このように、神様は、人に対象の位置を与えようとされるが、その位置に立って、神様と授受できる者が、まだ、いないのである。それは、神様にとって、どれほど悲しいことであろうか。それゆえ、神様は、対象を求めておられるのである。


18-8 神様の愛は人を通して現れる

人も神様と同じように、第二の自分となる対象を求めようとする。つまり、自分の子女、夫や妻、事業体や社会を対象として愛することが、喜びとなるのである。

神様と共にあれば、神様から愛を受けることができる。天には、愛を与えて下さる神様が居られ、地には、愛を与えることのできる者がいる。これが、どれほど幸福なことであろうか。愛を受け、愛を与えることができるようになった者は、いつでも喜びを感じることができる。父母が子女を愛し、夫婦が互いを愛するのは、原理の現れなのである。

神様を発電所とするならば、人は、受けて与える変電所や配電所のような存在であり、万物は需要地のようなものである。つまり、人がいなければ、万物は愛を受けることができない。また、人が神様から受けた愛は、減少させることなく、そのまま万物に与えることが理想である。それは、電気の場合に、損失の無いことが理想であるのと同様である。損失は、電線の抵抗などによって左右され、損失が多ければ、多くの電力を無駄に消耗することになる。人は、そのような損失をもたらす電線の抵抗のような肉身を持っている。その肉身が、完全に良心と一つになれば、損失は無いが、そうでなければ、損失をもたらすことになる。もし、人に損失が無く、対象に対して、愛を完全に与えることができるならば、対象が愛を返すときにも損失は生じない。そうであれば、既に原理が復帰されているということになる。神様から求められていることは、完全に受け、完全に与え、完全に返すということであり、そうすることによって、善を継続することができるのである。つまり、神様のみ旨がよく成就するかどうかは、人にかかっているのである。


18-9 愛と美を授受して一つになることは善である

神様は、生命の中心であり、喜びの中心である。人が最も求めているものは、神様の愛であり、それを受けるときに、喜びが生まれ、幸福となり、神様も喜ばれるのである。しかし、神様から愛を受けようとすれば、その愛を受けることのできる美がなければならない。神様は、美があってこそ、完全な愛を与えることができるのである。つまり、神様の愛を受ける人々は、神様にとって美の存在である。愛をプラスとすれば、美はマイナスとなる。この愛と美を完全に授受し、神様と人が一つになることは、善なることである。

神様がイエスを送られたのは、イエスを通して、神様の愛を現すためであった。こうして、神様は、人々に愛を与えようとされたのである。それゆえ、神様は、愛を受けることのできる人、即ち、美の存在を探し求めてこられたのである。

また、夫婦間において、夫が妻に愛を与え、妻が夫に美を返し、夫婦が一つになれば、それもまた善である。このように、対象原理が完成すれば、善の繁殖が始まるのである。


18-10 義によって善が成就する

人は、良心と肉身を一つにして、神様の対象として完成し、神様の愛を受けることのできる美の存在とならなければならない。そうなれば、自然に、神様の愛を受けることができる。これは、電気の原理と同様であり、マイナス(美)が生じれば、自然にプラス(愛)も生じるようになっている。こうして、愛と美を授受し、神様と一つになることは善である。この善を成就させるために、授受を継続させる力が義である。ローマ人への手紙3章10節に記されているように、パウロが、「義人はいない、ひとりもいない」と言ったのは、自分たちの中に、義を立てることのできる対象格の人物がいなかったからである。

上述のように、愛と美を授受し、善を成就させるためには、良心が中心となるように、義によって、肉身を維持しなければならない。こうして、肉身が良心に従って行動すれば、神様の愛と人の良心が一つになるのである。つまり、神様の愛を受けようとすれば、良心だけではなく、肉身も伴っていなければならない。肉身は、義によって良心と一つになり、神様に属するようになるのである。このように、我々には、愛と美と義を立てることによって、神様と一つになることができるという原理がある。

また、自分の対象に対する義とは、対象を自分と同等の位置にまで引き上げ、それを維持することである。例えば、自分の事業(仕事)を対象とすれば、自分が事業と一つになって、その関係を維持することが義である。義が無ければ、対象は美を現すことができない。

神様は、自分の本体であり、愛の存在である。その対象である自分は、美の存在である。また、自分の対象に対しては、自分が愛の存在となり、対象は美の存在となる。このような対象の美は、義によって現れる。

義というのは、自分の位置を維持する上で、常に要求されるものであり、また、自分が対象を完成させるために必要なものである。この義によって、良心と肉身の関係や、自分と対象の関係などが維持され、また発展し、対象が美を現すようになる。こうして、善が成就するのである。

対象に10の愛を与えれば、対象から10の美を受けなければならない。つまり、対象は、10の愛を受けて、10の美を返さなければならない。このような関係を築くことが善である。ここで、義の役割は、愛と美の授受を全うさせ、この過程を維持することである。しかし、対象が義に従うとは限らない。何故なら、愛を与えても、善が成就するかどうかは、対象によって左右されるからである。このように、美を返すべき対象の位置は重要である。

たとえ神様が、人に愛を与えたとしても、それに相応する美を受けることができなければ、神様は不義な行動をとっていることになる。従って、神様の愛を受けている者は、それに相応する美を神様に返し、自分の対象に対しては、神様と同じように、愛を与えなければならない。旧約時代は行義を中心とし、新約時代は信義を中心としてきたが、成約時代からは侍義じぎを中心とする時代、即ち、美を返す時代となるのである。

義による愛と美の授受

図のように、義は、愛と美の中心にある。ある目的を果たすためには、中心である義、即ち、点Aから始めなければならない。こうして、点Bと点Cにつながれば、善が成就し、その目的は完結する。つまり、曲線ABCが描かれることで、善が成就するのである。次に、他の目的を果たそうとする場合も、前回の義を基盤として、曲線アイウが描かれることで、善が成就する。これを継続することによって、美を受け続けることのできる連続した曲線となる。こうして、永遠の善を成就することができるのである。

自分が、神様の愛を受け、神様に美を返すことによって、善の立場に立てば、自分の相対に対して、愛を与えることができるようになり、さらに、その相対を対象として完成させれば、理想を展開することができるようになる。つまり、自分が、神様の代わりに、配偶者や子女に愛を与え、美を受けることができるのである。こうしてこそ、神様と自分と自分の対象が、皆喜ぶことのできる善の家庭を築くことができる。

善なる自分を中心とする善なる家庭から、善なる社会を展開することができる。そのためには、自分の事業(仕事)を義なるものとしなければならない。こうして、自分の対象である事業に美を感じながら、その事業を自分の分身のように思い、善を成就しなければならない。結果的に、自分の目的と事業の目的が同じになるため、その事業は、自分と一つになっていると言えるようになるのである。

天宙は、一つの体のような構造になっている。天を心とするならば、物質世界は体のようなものである。そのような物質世界で、事業(仕事)を行いながら、善を成就することが、我々の理想である。

事業(仕事)が義なるものであってこそ、美を現し、善を成就することができる。これは、中心的存在が、神様であり、自分でもあるということを意味する。このように、同じ路線上に存在していれば、共通の要素を感じるようになるのである。

我々は、その路線上では、どこで脱線をしても、良心の呵責を感じるようになる。それは、自然の法則と同様に、家庭も、社会も、自分自身も、全てが一つの法則の上に存在しているからである。また、我々は、理想の家庭について考える前に、まず、神様の愛を受け、その次に、理想の事業(仕事)を行うべきである。そうすれば、理想の家庭は必然的に実現され、それを維持することができるようになる。


18-11 神様の理想の終着点

この世では、理想と思われる偽物が先に現れる。しかし、それは、原理から離れているため、結局、途中で終わることになる。反対に、原理の上に立っていれば、永遠の理想をもって出発し、成長させることができる。そこにおける愛は、永遠の義によって、永遠に続くのである。このような、神様のみこころに合った愛によって、理想の事業体と理想の家庭を築き、それらを天につなげなければならない。それを成した世界が、神様を中心とする自由理想世界である。

神様が望まれている最終的な理想のかたちとは、神様の愛を人が受け、人を中心として、全天宙が和合することである。これが実現してこそ、神様のみ意通りに全天宙が動き、それが永遠となるのである。ヨハネの黙示録21章6節には、「わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終わりである。かわいている者には、いのちの水の泉からあたいなしに飲ませよう」と記されている。これは、神様の理想と愛が永遠であることを表しているのである。神様は、あまりにも大きな理想を人に与えられた。それでも、人は、その理想を受け入れ、成就しなければならない。人は、地から天へと向かい、永遠の生活をすることになっている。この幸福を、誰が感謝せずにいられようか。

神様は、再臨主を通して原理を教示され、また、神様の理想は、再臨主によって展開される。それゆえ、神様が望まれることは、世界の人々が、再臨主と共に、み旨を成就することである。


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