16 審判の根本意義
16-1 審判は必ず果たされる
神様の摂理路程が、人類歴史として展開されてきたことは、既に述べた通りである。しかし、神様の目的が、未だに果たされていないため、依然として、人類歴史は、その目的に向かっているのである。このような歴史を通して、神様が、非原理的な存在と対峙してこられたのは、他でもなく、人々を復帰するためである。それが、神様の摂理であることを知らなければならない。
そうであるなら、神様は、何故、人々に対して、恐ろしい審判をされるようになったのか。それは、言うまでもなく、非原理的な存在であるサタンが、人々に侵入したからである。その結果に対する原理的な対策が、神様の審判であり、それが戦争というかたちで現れている。この審判を受けている中心的な存在はサタンである。それゆえ、神様に属していなければならない人々が、サタン側に行けば、審判の対象となってしまうのである。
最初の審判は、ノアの時の洪水審判であった。人々が、この審判を受けたのは、神様を離れて、怨讐サタンに属していたからである。非原理のサタン世界は、神様のみ
その時、神様には、ノアの8人家族が、再出発の起点となる希望の存在であったため、全世界の人々よりも貴い存在に見えたのである。
こうして、神様は、ノアの家族によって、サタンを本格的に追放しようとされた。しかし、ノアの家族が、新たな第一歩を踏み出した時に、再びサタンに侵入されたため、その目的を果たすことができなかった。
洪水審判の根本目的は、サタンが所有している全ての存在を無くすことであった。しかし、そのサタンが、ノアの家庭を通して、再び侵入してきたのである。つまり、サタンが、未だに、この世界に潜んでいるため、審判の摂理は、まだ残されているのである。従って、サタンが潜んでいるところには、必ず審判がある。
人々は、歴史を通して、神様側とサタン側に分立されてきたが、非原理的なサタン側が、原理的な神様側の目的に反することをすれば、結局、サタン側は審判を受けることになるのである。
このように、神様側の人々とサタン側の人々が、対立するようになったため、ノア以降は、神様が直接審判されることよりも、人、或いは、氏族、民族、国家を立てて、審判されることが多くなった。神様は、このようにして、審判を続けてこられたのである。つまり、審判の最高主権者は神様である。
神様は、審判によって、人々からサタンを遠ざけ、サタンと人々が再び一つにならないようにしようとされる。このような審判が、人を完成させるための路程となっているため、この目的は、必ず果たさなければならない。人は、本来、サタンまでも主管することのできる存在であるため、サタン側の人々を審判することで、その目的を果たすことができるのである。従って、サタンに好まれることをしている者たちには、必ず、ある時期に審判がある。神様から直接、審判という罰を受ける者もいれば、人によって罰を受ける者や、病によって罰を受ける者もいる。
人がサタンから離れて、神様の側に来れば来るほど、神様は、その人に、本来の権限を与えようとされる。そのため、長い期間を要しても、人が自らサタンを離れることによって、サタンを完全に屈服させようとされるのである。
16-2 神様がイスラエル民族を立てられた理由
神様は、洪水審判によって、サタンの罪を清算しようとされたが、その目的を達成することができなかった。そのため、サタンと戦うことのできる民族、即ち、イスラエル民族を立て、その目的を達成するための基台とされたのである。
それゆえ、神様は、イスラエル民族を保護され、その中に、サタンに属する者が現れれば、その者を容赦なく審判された。その審判は、神様による直接的な方法や、人や病気による間接的な方法で行われた。そのようにされたのは、サタンに属する者が多くなれば、イスラエル民族自体が、審判を受けることになるからである。
16-3 審判は恐ろしいことでもあり喜ばしいことでもある
神様が望まれていることは、世界から審判を無くすことである。審判の目的が果たされて、サタンが完全に屈服し、全ての人々が神様の懐に帰って一つになれば、審判の必要は無くなるのである。しかし、依然として審判の目的が果たされておらず、今もサタン側の者たちが活動しているため、審判というものが、未だ、この時代に残されているのである。
この審判の時期は、人々にとって、非常に恐ろしい時期であると同時に、大いなる喜びの時期でもある。つまり、恐怖と歓喜の境界であり、分岐点であるとも言える。神様は、この審判が完了し、み旨が成就するその時を待ち望んでおられるのである。
世界的な審判が始まったのは、イエスが来られた時からである。イエスによって、信義の信仰が立てられたため、人々が分別され、神様は、審判の目的を果たすことができるようになったのである。それゆえ、イエスは、審判の対象を決定する中心的存在であり、歴史を左右する中心的存在であると言うことができる。つまり、イエスが来られてから、サタンを転覆させるための工作が始まったのである。神様は、事前に、預言者を通して、この時期を人々に伝えられた。
審判の根本的な目的は、悪なるサタンを討つことである。それゆえ、審判は、サタン側の人々にとっては、とても恐ろしいことであるが、神様側の人々にとっては、解放を意味するため、大いなる喜びであることに間違いはない。つまり、審判を受けるサタン側の人々には死があり、審判を受けない神様側の人々には永遠の生命がある。
イエスは、イスラエル民族にとって、非常に恐ろしい存在であった。その当時、イエスと共に行くのかどうかということは、人々の判断に任されていたため、その判断によって、イスラエル民族までもが、死の道を行くかも知れないという状況だったのである。結局、イスラエル民族は、イエスを信じられなかったため、彼らは皆、神様とは関係のない立場となった。
マラキ書4章1節から2節には、イエスの来る日は、非常に恐ろしい日だとして、次のように記されている。
「
このみ言を見ても、イエスは、審判の中心的存在であったと同時に、喜びの存在であったことが分かる。では、イエスがこの世に来られた時に、このみ言の通りになっていたのかと言えば、そうではない。このみ言の意味は、サタンは負けて、根絶されるということである。それを、焼き尽くすと表現されたのである。つまり、イエスの側にいなければ、焼き尽くされることになる。
16-4 再臨のしるし
イスラエル民族は、イエスに協力し、積極的にサタン側と対立する立場を取って、審判をする側に立たなければならなかったにもかかわらず、イエスに反逆するという恐ろしい行動をとってしまった。こうして、イエスの時には、積極的にサタン側を審判することができなかったため、再臨の時に、この目的を完全に果たし、サタン側を全滅させようとされるのである。それゆえ、この時が近づけば、人々は全権を持って、サタン側の審判を始めようとするのである。
こうして、世界の国々が、神様側とサタン側に分立され、戦争が始まったということは、既に、審判の目的が果たされる時代に入ったということである。この時代は、み旨成就の基盤となる期間であるということを知らなければならない。
神様側の国家が、サタン側の国家に勝利すれば、再臨による理想の実現は、既に始まっていたということである。つまり、神様側とサタン側の主義が対立した時には、既に、理想を実現するための基盤が完成していたのであり、再臨主は、その前に来られ、既に、ご自身の路程を出発されていたということになる。
16-5 再臨主の時にサタンは完全に屈服する
サタンは、根本的に、神様に屈服したが、イエスには勝とうとした。しかし、イエスに勝つことはできなかった。次に、再臨主に勝とうとするが、勝つことはできず、サタンは居場所を失うであろう。
神様とイエスと聖霊が一つになり、全ての人々と万物が、神様のもとで一つになれば、サタン側は、全てを自分らのものにしようと戦ってきたその目的を失い、これ以上、神様の摂理に反対することはできなくなる。こうして、サタンが完全に屈服し、原理が本来のかたちとなり、審判の目的が果たされたときには、神様の懐以外に居るべきところが残されていない。このような事が、再臨の時から始まるということは、原理を見ても明らかである。
今の信徒たちは、審判の根本的な意味を知らない。そのため、今でも、自分たちの取るべき方向をつかめていない。この審判の意味を知れば、世界は神様が中心となり、必然的に、み旨成就に向かっていくことが分かるのである。このみ旨に従えない者は、この世において、苦難の路程を避けることができない。そのような時代が必ず来る。その時代になれば、善が勝ち、悪は屈服するため、悪の影は無くなっていくのである。このような理想世界が、神様を中心として展開されるのである。