13 イエスの責任分担摂理期間
13-1 地上に来られたイエスの存在価値
旧約時代は、神殿を建てるための路程であり、
イエスの存在価値は、神殿とイスラエル民族を合わせた価値よりも高かった。何故なら、イエスは、4千年の歴史を通した摂理の結実そのものであり、また、神様が創造された全ての存在を合わせた価値を持っていたのであり、さらに、神様の全ての目的を取り戻すことのできる価値を持っていたからである。それゆえ、イエスは、神様にとって、何よりも貴い存在であった。イエスによって、神様のみ旨が成就していくということは、説明するまでもない。このような、中心的な存在が、地上のイエスであった。
天宙の中心であるイエスが地上に来られたのは、地上でアダムとエバが堕落したため、その地上を復帰して、神様の創造理想を原理通りに完成させる条件を立てるためである。従って、地が無ければ、天は完成しないのであり、地上でのみ旨が成就してこそ、神様のみ旨が完全に成就するのである。このように、天と地は、一つの体のような関係になっているため、それらを切り離して考えることはできない。
13-2 神様はイエスを通して全てを統合しようとされた
イスラエル民族が、み旨を信奉することができるように、神様は、彼らを直接導き、育成してこられた。さらに、世界の人々も、み旨を信奉することができるように、歴史的な聖人たちを通して、東西洋の摂理を展開し、それらを統合するための工作をされた。このような使命を持った代表的な人物が、孔子や釈迦であった。また、哲学者ソクラテスなどが、善を基準として教示していたことにも、み旨を中心とする意義があったのである。また、どのような宗教でも、善なる神様を基準としているのは、神様の摂理の目的が根本となっているからである。こうして、神様のみ旨が成就すれば、各宗教の教えも統合されなければならない。
イエスは、神様の理想を全て実現させることのできる存在であった。つまり、イエスがみ旨を成就すれば、全天宙が動き、宗教、経済、科学は、神様の理想を中心とするようになっていた。神様は、このような目的で、イエスを送られたのであり、また、イエスを通して、全てを統合しようとされたのである。このような重大な使命を持ったイエスが来られたため、福音が全天宙に伝えられたのである。
13-3 神様がエリヤを送られた目的
神様は、イエスを送る前に、エリヤを送ると言われた。それは、イエスをサタンから守るためであり、イエスがイスラエル民族から大歓迎を受けるようにするためであり、イエスの栄光が彼らの誇りとなるようにするためであった。また、イスラエル民族には、イエスを信じ、仕えなければならないという使命があったため、それを果たすための条件を整えておくために、エリヤが必要だったのである。
天では、イエスによって、み旨が成就されることを望んでいた。イエスだけが、全ての生命の根本であり、全てを開放することのできる存在であった。また、イエスは、サタンを中心とする非原理世界を、神様を中心とする原理世界に変える使命があった。それを果たすためには、イエスが来られる前に、イスラエル民族が、来たるべきエリヤと心を合わせて、一つにならなければならなかった。
13-4 イスラエル民族はメシアよりもエリヤを待ち望んでいた
イスラエル民族には、メシアが来られる前に、エリヤが来ると伝えられていたため、当時、彼らが待ち望んでいた存在は、メシアよりも、むしろエリヤであった。エリヤは、その当時、イスラエル民族に良く知られていたが、既に昇天した人物であった。しかし、エリヤは間違いなく来ると信じていたため、昇天したエリヤが、いつ天から降りてくるのかと、天に向かって待ち望むようになった。
ところで、今でもエリヤが天から降りてくると待ち望んでいる者は、イエスをメシアだと認めていないユダヤ教の信者などである。イエスがメシアとして来られたということは、今では確固たる事実として世界的に知られている。
13-5 当時イエスはメシアだと思われていなかった
律法学者やパリサイ人たちは、「イエスがメシアなら、何故エリヤは来ていないのか。エリヤが来たのなら、何処に来たのか」と考えていた。つまり、イエスはメシアだと思われていなかったのである。それは、自分たちが歴史的に待ち望んでいた事と符合していなかったからである。そのような事を表している内容が、聖書の中に多く見られる。当時は、イエスを信じることが本当に難しかったのである。
メシアだと言っているその存在は、彼らがよく知っているヨセフの子であり、それまで、大工として知られていたのである。(マルコによる福音書6章3節参照)彼らは、このような内幕をよく知っていたのであり、イエスの生活を見ても、自分たちと何ら変わるところが無かった。そのようなイエスが、どうして自分たちの待ち望んでいた存在なのか。どう考えても、それとは遠い存在に見えたのである。彼らが望んでいたメシアは、千年以上も待ち望んだ希望の存在であった。それがイエスだとは思ってもいなかった。それゆえ、イスラエル民族には、イエスが非常に難儀な存在に見えたのである。
メシアはベツレヘムで生まれると思われていたため、自分たちのメシアが来られたと聞けば、当分の食べ物や衣服などを準備してベツレヘムに向かい、何か新しい知らせはないかと尋ねたであろう。もし、そのように待ち望んでいた者がいたならば、人々はメシアの誕生を知ったであろう。しかし、そのような者さえもいなかったのである。
彼らは自分たちのためにメシアを待ち望んでいたのであり、メシアの力によって、より豊かになることを期待していた。各自が自分の理想とするメシアを待ち望んでいた時に、イエスという存在が現れた。たとえ、イエスが、自分がメシアだと宣言しても、それは彼らの理屈に合わないことであり、あまりにも腹立たしいことであった。イエスは、肉身をもって来られたため、自分たちと同じような生活をしていたのであり、また、公生涯においても変らない様子であったため、彼らがイエスに対して疑いを持ったのは、仕方のないことであった。
このようなイエスに対して、さらに疑いを深めた問題は、エリヤが現れていないということであった。もし、エリヤが来ていれば、つじつまが合っていたのであるが、エリヤが来る前に、メシアが来られたのである。これをどうして受け入れることができただろうか。
13-6 洗礼ヨハネはエリヤとして送られた
今、我々は、逆の立場で考えてみる必要がある。それは、以前から、イスラエル民族を悪く言っていたからである。今では、イエスが万民の救い主、メシアであり、イスラエル民族が待ち望んでいた存在であったことは、歴史的にも認識されている。それゆえ、この世の信徒たちは、イエスがメシアであり、預言された方であることを知っている。また、聖書を見れば、洗礼ヨハネがエリヤであったと知ることもできる。マタイによる福音書11章14節には、「もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである」と記されている。イエスは、洗礼ヨハネのことを、このように語られたのである。しかし、今の信徒たちが、当時のイスラエル民族の立場であれば、イエスをメシアだと信じる者が、はたして何人いるだろうか。今の信徒たちの多くは、パリサイ人の信仰にも及ばないのである。これは、懸念すべき重大な問題である。
では、神様の摂理において、洗礼ヨハネをエリヤとして送られたことには、どのような意味があるのか。これを明らかにしなければならないが、それができない今の神学界が、神様の摂理を信奉することができるだろうか。
今は、終末だといわれている。この時に、聖書の知られざる事実が明らかにされてこそ、聖書はその目的を終え、再臨主を迎えることができるようになるのである。それでは、その重大な事実を明らかにしよう。
神様が、み旨を成就されようとするときに、何が一番問題になるのかと言えば、神様の他にサタンが存在しているということである。このサタンが、今まで敵として現れ、神様のみ旨を破壊してきたのである。もし、サタンがいなければ、み旨を成就することは困難ではなかった。
サタンは、人々を自分の所有圏内から逃さないようにするため、執拗に神様のみ旨を妨害してきた。それによって、神様のみ旨成就は、歴史的に延長を重ねてきたのである。従って、神様は、サタンを全面的に屈服させ、み旨を妨害できないようにしなければならなかった。しかし、そのためには、イエスを送る前に、イエスの路程にサタンが現れないようにするための工作が必要であった。その工作の責任者として送られたのが、エリヤであった。
エリヤは、よく知られているように、神様の前で、一人でサタン側の大勢の預言者と戦った最も勝勢のある者であった。当時、エリヤの目的は、サタン側の存在を全滅させ、サタンに神様のみ旨を妨害させないようにすることであった。そのために、エリヤは、サタン側であるバアルの預言者450人とアシラの預言者400人を滅ぼしたのである。このように、エリヤは、み旨成就の路程において、サタンに対抗することのできる重要な存在であった。しかし、その当時、エリヤは、サタンに対する目的を完全に果たすことができなかった。何故なら、再びサタンが侵入したからである。そのため、イエスにまでサタンが侵入する心配があった。それゆえ、神様は、イエスを送る前に、サタンの痕跡を残さないよう、エリヤの目的を完全に果たすための代理人として、洗礼ヨハネを送られた。これが、洗礼ヨハネがエリヤであるという意味である。このように、洗礼ヨハネは、エリヤの目的を果たすべき使命を持っていた。洗礼ヨハネが、その使命を果たせば、神様のみ旨は完全に成就し、み旨の路程からサタンを消すことができたのである。
マラキ書4章5節から6節には、エリヤについて、次のように記されている。
「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」
また、ルカによる福音書1章16節から17節には、洗礼ヨハネについて、次のように記されている。
「イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう。」
これらの聖句から分かるように、イエスは父の立場、イスラエル民族は子の立場であった。従って、エリヤとして送られた洗礼ヨハネは、イスラエル民族に、イエスが父であることを伝えて、み旨を成就させるための基盤を固めなければならなかったのである。
それゆえ、洗礼ヨハネは、外的にはサタンに備えながら、内的にはイスラエル民族に子としての道理、即ち、父に仕えることを教え、イスラエル民族が父から愛されるようにしなければならなかった。つまり、洗礼ヨハネの使命は、メシアを迎えるための準備をすることであった。彼の荒野生活の全ての目的が、その使命を果たすことによって、完成するようになっていたのである。
13-7 洗礼ヨハネはイエスをメシアだと認めることができなかった
洗礼ヨハネは、イエスより6ヶ月前に、ザカリアの家庭で生まれた。彼は、神様に期待されていた存在であったため、サタンが最も嫌う存在であった。また、その時代の代表的な人物であり、彼の30余年の生涯の全ては、メシア一人のためにあったのである。それゆえ、洗礼ヨハネは、メシアを迎える日の喜びと栄光を待ち望んでいた。
マタイによる福音書3章11節を見ると、洗礼ヨハネは、メシアについて、次のように証言していた。
「わたしは悔い改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」
このように、大衆の前で、自分とメシアに格段の違いがあることを告白したのである。
当時、洗礼(バプテスマ)は、イスラエル民族にとって、新しい儀式ではあったが、彼らが洗礼ヨハネを天が送ってくださった預言者だと信じていたため、洗礼ヨハネから洗礼を受けていたのである。
洗礼ヨハネが、ヨルダン川で洗礼を与えていた時に、ちょうどイエスが、ガリラヤからヨルダン川に着き、洗礼ヨハネから洗礼を受けようとしていた。しかし、洗礼ヨハネは、それを断ろうとして、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」と言った。するとイエスは、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」と言われたため、洗礼ヨハネは、イエスに洗礼を与えたのである。(マタイによる福音書3章14節から15節参照)つまり、洗礼ヨハネがイエスに洗礼を与えたのは、自分の思いからではなく、イエスの望みを受け入れたからである。その洗礼は、み旨を成就することのできる資格を、イエスに与えるための儀式であった。
こうして、洗礼を受けたイエスが、水から上がってこられると、天が
洗礼ヨハネが、その声の意味を理解して、それをイスラエル民族に伝えていれば、み旨を成就することができたのである。しかし、神様は、イエスがメシアであるということまでは明確に教示されなかった。つまり、洗礼ヨハネは、それを自分で悟らなければならなかったのである。もし、その時、イエスがメシアであると分かったならば、洗礼ヨハネにとって、それ以上の喜びは無く、大衆に対して、「イエスは神様が送って下さると言われたメシアである」と積極的に宣布し、自ら代表的な立場に立って、イエスを支援すべきであった。洗礼ヨハネは、大衆に大きな影響を与えることのできる立場だったのである。
結局、洗礼ヨハネは、イエスがメシアであると大衆の前で宣布することができなかった。そして、それまで通りに、自分の始めた洗礼を大衆に与えていたのである。それゆえ、大衆は、イエスをメシアだと見ていたのではなく、洗礼ヨハネの知り合い程度に見ていたのである。洗礼ヨハネに与えられた歴史的な使命とは、ただ洗礼を与えることだったのか。それは、あまりにも価値の無い行動であった。メシアを迎えるべき存在が、ただ好き勝手に、四方をまわりながら、洗礼だけを与えていたことに対して、我々は嘆かわしく思わざるを得ないのである。
洗礼ヨハネは、自分がエリヤの代わりであることを知っていたのであろうか。ヨハネによる福音書1章21節を見ると、「あなたはエリヤですか」という質問に対して、洗礼ヨハネは、「いや、そうではない」と答えていた。このように、自分の使命を明確には理解していなかったのである。彼自身が、それを理解していたならば、大衆の前で自分の立場を明確にし、イスラエル民族が抱いていたメシアに関する疑問を解いていたはずである。そして、エリヤとしての責任を果たすために努力し、イエスに仕える中心的な存在となり、イエスの全ての使命に協力する者として、イエスから最も愛される弟子になることもできたのである。これより大きな目的が、他にあっただろうか。それにもかかわらず、洗礼ヨハネは、イエスと別々に行動し、神様に対して重大な責任を果たすことができなかったのである。
マタイによる福音書11章3節に記されているように、獄中にいた洗礼ヨハネが、弟子たちをイエスのところに送り、「きたるべきかたはあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせたということは、洗礼ヨハネ自身も、イエスがメシアであるかどうかという問題を解決できていなかったということである。このように、み旨を
13-8 洗礼ヨハネの失敗によってイエスは荒野路程へ
洗礼ヨハネを貴い人物として讃えることは、許されるべきことではない。自分の責任を果たさず、自分の思いのままに行動した洗礼ヨハネは、神様にとって、貴い人物ではなかったことを知らなければならない。イエスの為に来た者が、その使命から離れて行動したのである。その本人である洗礼ヨハネはもちろん、彼に従う者までが、神様に憎まれる者となった。神様としては、彼らを最後まで善とすることができなかった。以上のような事が原因となって、イエスは、荒野生活という苦難の路程を断行せざるを得なくなったのである。
荒野までイエスに仕えた人は、一人もいなかった。その時、イエスをメシアとして仕えた人がいたならば、その人は、神様から一番大きな賞をもらったに違いない。イエスは、自分の使命を果たせるかどうかという暗路に入ったのである。これを知っていたのは、神様とイエスだけであった。イエスにとって、その荒野での寂しさは、大きな失望を感じさせるものであった。考えてみれば、東方の博士は、どこに行ったのか。羊飼いたちは、どこにいるのか。母親や洗礼ヨハネは、何をしているのか。彼らの事を思うと、イエスの悲しみは、さらに深まるのであった。この荒野での孤独な心中を察して同情する者は、この世に何人いただろうか。
しかし、その荒野路程の期間で、失望から立ち直り、再出発を決意せざるを得なかった。そして、怨讐サタンの試練を乗り越えなければならなかった。
サタンは、既に、み旨を成就するための基盤に侵入していた。そして、洗礼ヨハネは、み旨を信奉することができなかった。これらの条件から、サタンは、イエスに試練を与えることができたのである。これは、原理的な行動であった。このように、サタンの自由行動によって、イエスに試練が与えられたということを知らなければならない。
13-9 洗礼ヨハネはイエスを人間的に見ていた
洗礼ヨハネの行動が、どうして許されるだろうか。考えてみれば、恐ろしい行動であった。洗礼ヨハネは、イエスがメシアであると分かったならば、自分の弟子たちまでも連れてきて、共にイエスの弟子となり、イエスに仕えなければならない立場であった。しかし、人間的な見方をして、誤った行動をとったのである。
洗礼ヨハネが、み旨の視点からイエスを見ることができなかったのは、何か理由があったのだろうか。彼には、メシアであるイエスが高貴な人物には見えなかったのである。何故なら、イエスは、容貌が特別だったのではなく、自分たちの希望を叶えてくれそうな存在でもなかったため、メシアとは程遠い存在に見えたからである。つまり、洗礼ヨハネは、その時のイスラエル民族と同じ視点で、人間的にイエスを見ていたのである。これが、失敗の原因であった。
もし、洗礼ヨハネが、自分の弟子たちと共にイエスの弟子となれば、それまでの先生という立場から、皆と同じように、弟子という立場に変わってしまう。彼には、弟子だった者たちと同じ立場になるということが、耐え難いことだったのである。このように、自分を中心とする視点で、天と向き合えば、サタンと一つになる方向に向かい、サタンの望む結果を招くということを知らなければならない。
13-10 洗礼ヨハネの失敗は聖書に示されている
私は、何の根拠も無く、このように論じているのではない。では、聖書から、洗礼ヨハネの大失敗を解説してみよう。今の神学界では難解とされている聖句、マタイによる福音書11章を見れば、その時の事が如実に示されている。その1節から6節には、次のように記されている。
イエスは12弟子にこのように命じ終えてから、町々で教えまた宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた。「きたるべきかたはあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである。」
イエスは、洗礼ヨハネの弟子たちに、「私が誰だとは言わない。あなたがたが自分で考えなさい」という思いで、このように言われたのである。
さらに、7節から19節には、次のように記されている。
彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群集に語りはじめられた。「あなたがたは、何を見に
このように、イエスは、洗礼ヨハネがエリヤであることを明かされた。
では何故、イエスは、自分自身のことを「私がメシアである」と明確に言われなかったのか。それは、悟らせるためである。その理由はこうである。もし、メシアであるイエスに会うことができるならば、これ以上の幸いは無いと言えるが、イエスのことを皆に教え、皆を導けば、イエスに会えない者が何処にいるだろうか。しかし、イエスが、最後まで自分自身のことを明確にしなければ、人々は、自分たちの知恵によって、神様のみ旨を立ててこそ、イエスに会うことができるのである。もちろん、天の導きもあるが、自分の努力によって、イエスに会ってこそ、その努力に見合った栄光を受けることができる。これが、最後まで自分自身のことを明確にはせず、悟らせようとされた理由である。
例えば、み旨の路程において、100を知らなければならない場合に、天は95までは教えてくれるが、残りの5は教えてくれない。何故なら、ある人が100を全て教えられ、自分で努力することをしなかったならば、その人は栄光を受けることができないからである。それゆえ、95までは天が教え、5は自分の知恵で知ることによって、100を満たすようになっている。この5を求めることによって成就するということは、それによって100を成就した栄光を受け、その人の権限が決定されるということである。イエスは、このような意義をもって、洗礼ヨハネに答えたのであり、天も、洗礼ヨハネには、95を教示したのである。このように、神様は、知恵によって探し求めることを義とされる。つまり、明確に教示しないというのが、神様の愛による摂理なのである。
また、イエスは、全ての人々に、ご自身を受け入れることを許されたが、知恵のある者たちが一つになってこそ、怨讐サタンの知恵に勝つことができる。このような基盤を持つことができるよう、神様は、以上のような摂理をされたのである。
神様は、ある目的を教示した後に試練を与え、その目的に対して疑いを持つようにされることもある。それは、知恵によって、その目的の意味を知り、神様が直接干渉されなくても、サタンに勝つことができるようにするための試練なのである。霊的に教示を受ける者たちの体験には、このような意義があることを知らなければならない。こうして完成した者となれば、神様に直接頼らなくても、サタンに対抗することができ、自由意志によって、み旨を成就することができる。神様は、我々がそのようになることを望みながら、摂理を展開されているのである。
知恵によって、み旨を成就する者は、天でも、非常に貴い存在である。また、尊敬される存在になる資格は、知恵によってのみ得られるのであり、尊敬に値する姿勢とは、知恵によって、み旨を成就しようとすることである。
ところで、イエスは、「貧しい人々は福音を聞かされている」(マタイによる福音書11章5節)と言われた。それには大きな意味がある。その時、イスラエル民族がメシアを待ち望んでいたのは、自分たちが豊かになれると思っていたからである。しかし、イエスは、「私は、あなたがたの望みを叶えることはできない。それゆえ、貧しい者たちに対するしかない。あなたがたは、豊かになろうと思っていたため、私と向き合うことができなかった」と、間接的に言われたのである。つまり、「貧しい人々は福音を聞かされている」というみ言の意味は、サタンが主管するところでは、悪なる者が富み、善なる者は貧しいということである。
次に、イエスは、「わたしにつまずかない者は、さいわいである」(マタイによる福音書11章6節)と言われた。この聖句にこそ、イエスの本心が現れている。つまり、このみ言は、「洗礼ヨハネは、私につまずいた」という意味であり、既に洗礼ヨハネが、本来の位置から離れたということを暗示するものであった。事実、彼は、イエスの路程に一大難事をもたらした。そのために、大犯罪者となったことは言うまでもない。やはり、洗礼ヨハネは、イエスにとって、致命的な存在だったのである。
次に、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか」(マタイによる福音書11章7節)というみ言が記されている。では、人々が荒野に出てきた目的は、何であったのか。その荒野に出てきたのは、イエスを知るためではなかったのか。洗礼ヨハネは、イエスを証言したのではなかったのか。しかし、イエスが、そのみ言を語っていた時、既に人々は、イエスがメシアであることを知るべき時期を逃していた。そのため、イエスは、そのみ言によって、洗礼ヨハネが失敗したことを暗示しながら、人々を叱責されたのである。
しかし、イエスは、「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった」(マタイによる福音書11章11節)と言われた。そのみ言の根本的な意味は何であるのか。かつての預言者たちも、その時の洗礼ヨハネも、女から生まれたのは間違いのない事実である。また、預言者であれば、神様のみ意を預言し、そのみ意を知らせる代弁人であることに間違いはない。もちろん、洗礼ヨハネも、神様のみ意を知らせる代弁人という意味では同様の立場であったが、その代弁人たちの立場を考えてみれば、かつての預言者たちは、預言としてイエスを証言したのであり、洗礼ヨハネは、直接イエスを証言したのである。それゆえ、証言した立場においては、洗礼ヨハネが、女から生まれた者の中で、最も大きい存在だったことは明らかである。
次に、「しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」(マタイによる福音書11章11節)と言われたが、これには、どのような意味があるのか。天国に行った者も、女が生んだ者である。女が生んだ者の中で、洗礼ヨハネが最も大きい者であれば、天国でも大きい者となるはずである。しかし、何故、天国では、洗礼ヨハネが最も小さい者となるのか。このような疑問を抱かざるを得ない。この疑問も、洗礼ヨハネの犯罪的な行動から解くことができる。当時、洗礼ヨハネが、積極的にイエスに仕えていたならば、彼は間違いなく、天において、最も大きい存在となっていたはずである。しかし、洗礼ヨハネは、イエスを証言しておきながら、積極的にイエスに仕える姿勢をとらず、自分の思いで行動していた。これは、大きな犯罪だったと言わざるを得ない。つまり、天にいる聖徒や天使、また、他のどのような存在でも、イエスがメシアであることを知って、心から仕えているにもかかわらず、イエスをメシアとして仕えるべき存在が、イエスに仕えることができず、むしろ、み旨に反する行動をとったのである。これは、天国において、最も小さい者となる行動であったと言わざるを得ない。こうして、彼は、天国で最も小さい者よりも、さらに劣る存在となってしまったのである。このように、「天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」というみ言は、イエスに仕えることのできなかった洗礼ヨハネの犯罪行為を叱責されたものであった。その重大な意味を知らなければならない。このみ言は、今でも、神学界において未解決となっている。
次に、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」(マタイによる福音書11章12節)と言われたが、これも、洗礼ヨハネの犯罪を指摘されたみ言である。もし、洗礼ヨハネが、み旨を信奉して、イエスに仕えていたならば、彼はイエスの一番弟子になっていた。しかし、イエスに仕えることができなかったため、イエスの一番弟子になることができなかった。そのため、その位置は、イエスに仕える他の弟子に渡されることになった。つまり、イエスに仕える他の弟子たちが、洗礼ヨハネに与えられるはずであったその位置を奪い取ることになったのである。
洗礼ヨハネの失敗によって、イエスの十字架路程が始まったということを明確に知らなければならない。正に憤慨すべき事実である。今日まで、洗礼ヨハネを貴い存在だと思っていた信徒たちは、どうして、その無知ゆえの悲しみを避けることができるだろうか。
イエスは、み旨を成就するために来られたが、この世の人々は、イエスに少しも応じなかった。イエスは、それを指摘して、次のように言われたのである。「それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。」(マタイによる福音書11章16節から17節)
次に、「ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、
上記の「知恵の正しいことは、その働きが証明する」というみ言が、警告であるということを、今の信徒たちは知っているだろうか。今、再臨を待ち望んでいる世界の信徒たちが、イエスの時のパリサイ人たちと同じ立場に立つならば、その信徒たちの中で、み旨を信奉できる者が、果たして何人いるだろうか。
その当時、厳しい状況となったイエスの前に、荒野路程という悲しみの路程が展開された。それが原理であることは、前述したことから理解することができると思う。このような原理を明らかにしなければ、今の教会の信徒たちは、み旨に対して積極的に反対するであろう。しかし、原理を知れば、み旨に反対する行動が、恐ろしいことであると分かるようになるのである。ここで述べている原理は、終末となり、再臨の時となり、み旨成就の時期となったために、明かされたものである。終わりの日に、神様のみ旨を知って信奉する者は、天では最も大きい者とされるであろう。
以上のように、洗礼ヨハネは、神様が予定された存在ではあったが、その使命を果たすことができなかった。このようなとき、神様は、み旨の価値を知って信奉する者に、そのみ旨を継承させる。そのために、そのみ旨の摂理を延長されるのである。このように、み旨に対する予定は絶対的であるが、人に対する予定は絶対的ではない。それゆえ、人が予め定められているというキリスト教の予定論などは、論外であると言える。
13-11 イエスの先祖となった女性たち
アダムとエバの失敗によって、人は神様から離れ、サタンの主管を受ける存在となってしまった。それゆえ、神様は、そのような人々を取り戻そうとされ、歴史の中に摂理路程があることを示してこられたのである。それは、これまでに述べた通りである。
ところで、特にイエスの直系の先祖を知るときに、もし原理を知らなければ、誰もが、その血統に疑いを持ち、汚れた血統だと言うであろう。その血統は、み旨のための血統である。そして、その歴代の先祖に起こった出来事には原理が示されている。それらの出来事を通して、堕落した人類をイエスにまで導き、復帰しようとされたのである。
イエスの先祖の血統は、純粋な血統ではなく、様々な女性たちが関わってきた。その代表的な女性は、タマル、ラハブ、ルツ、バテシバなどであるが、神様は、理由があって、このようにされたのである。人々をサタンの血統から本来の血統に復帰するためには、サタンに汚された原理を立て直す必要があった。そのため、サタンが神様から人を奪ったように、神様もサタンから人を奪って、その原理を立て直そうとされたのである。こうして、その女性たちが、汚れた女性のような立場で、従順、信仰、奉仕を成したときに、み旨が成就し、イエスの先祖になる資格が与えられるようになっていた。このような原理を成立させることが、神様のみ意であった。つまり、イエスがメシアとして降臨することができたのは、その血統に関わった女性たちが、従順、信仰、奉仕を成したからである。
ヤコブがエサウから奪った長子の権利は、ユダ(ヤコブと妻レアとの第四子)が受け継いだ。それゆえ、ユダの長子が、その権利を受け継がなければならなかった。それは、ユダの支族を通して、神様のみ旨が展開されるということであるが、そのみ旨を初めに成就させたのが、ペレツとゼラであった。つまり、神様は、タマルに双子を与えられたが、その双子、ペレツとゼラは、エサウとヤコブのように、胎内にいた時から争っていた。このようにして、み旨が立てられていたことには大きな意義がある。
では、タマルがとった行動から調べてみよう。タマルは、神様のみ旨を中心とするユダの血統を、自分の息子に継承させなければならない立場であった。しかし、ユダの息子によっては、自分の息子を得ることができなかったのである。創世記38章6節から16節には次のように記されている。
ユダは長子エルのために、名をタマルという妻を迎えた。しかしユダの長子エルは主の前に悪い者であったので、主は彼を殺された。そこでユダはオナンに言った。「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい。」しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした。彼のした事は主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。そこでユダはその子の妻タマルに言った。「わたしの子シラが成人するまで、
このように、タマルは、恥じらいも死も顧みず、神様のみ旨を成就させるために行動したのである。つまり、タマルは、ユダの血統の価値を知っていたため、やむを得ず、義理の父であるユダによって、自分の息子を得ようと、覚悟を決めていたのである。こうして、身ごもったのが、ペレツとゼラであった。
このような、非倫理的なことが、ユダとタマルの間にあったのである。こうして、タマルは、非倫理的に血統を守った存在となった。このタマルの行動は、何を意味しているのか。エバは、サタンに貞操を奪われ、非原理的な血統を継承させた者となった。こうして、人々は堕落したのである。しかし、それとは反対に、タマルは、神様の側に立って、血統を継承させた。これは、神様のみ旨を失ってしまったエバのような存在が後に現れて、タマルのように、み旨を中心として行動するということを示している。
それゆえ、堕落したこの世では、神様のみ旨を成就させることのできる女性が、タマルのように、非倫理的な行動をしながらも、サタン的なこの世に順応せず、神様に順応する者として、血統を継承させることになる。このような事実があることを示したのが、タマルであった。それゆえ、タマルのように、サタンに属するこの世の女性が、神様に属する夫を迎えなければならないエバとして現れ、新婦となるのである。この世では非倫理的に見えるが、命を惜しまず、み旨を果たそうと準備をする女性がいなければならない。タマルは、そのような女性を象徴する存在であった。このようなタマルは、神様の愛する血統を守った、とても尊い先祖である。イエスが来られ、このような女性を探し出して、神様のみ旨を成就させるということが、暗示的に示されていたのである。
タマルのように、み旨を果たそうと努力するならば、サタンの圏内から神様の圏内へと移ることができる。タマルは、このような路程があることを示したのである。ユダは、神様を象徴していたのであり、タマルは、神様が取り戻さなければならないエバを象徴していた。このような関係による血統の継承は、み旨の中心となるイエスの先祖として、原理上、許されたのである。タマルが、夫となる存在を離れ、義理の父の懐に入ったように、エバとしてのみ旨を果たそうとする女性は、夫となる存在を離れ、神様の懐に入ってこそ、神様がサタンからエバを取り戻すというかたちが完成し、根本的な復帰を果たすことができる。そのため、神様は、以上のような路程を示されたのである。
タマルから生まれた双子、ペレツとゼラは、本来、一人であるべき存在が、二人になったことを示している。これは、神様に属する者と、サタンに属する者がいるということである。堕落が無かったならば、何の問題も無く、最初に生まれた子が長子となるが、この双子は、互いに長子になろうとして胎内で争っていた。このようになったのは、堕落の血を受け継いだために、神様側とサタン側に分立された双子が、互いに、長子の権利を得ようとしていたからである。
エサウとヤコブのときは、弟のヤコブが、兄のエサウから長子の権利を奪った。ペレツとゼラのときは、先に生まれた子が、長子の権利を得て、み旨を継承することになっていた。そのために、ペレツとゼラは胎内で争っていたが、先に生まれようとするゼラを退けて、ペレツが先に生まれ、長子の権利を得たのである。こうして、タマルは、神様のみ旨を成就させた者の母となった。
以上のことは、将来、怨讐のこの世にイエスが来られ、長子になろうとするサタンと直接戦って勝利し、長子の権利を得ることを示したのである。
上述のタマルのように、ラハブやルツもやはり、神様のみ旨を子に継承させるために、非倫理的な行動を許された。つまり、この世の常識から外れた行動をとったのである。
次は、バテシバについて調べてみよう。バテシバには、ウリヤという夫がいた。ダビデ王は、家来であるウリヤ、即ち、バテシバの夫を戦場の最前線に送って死なせ、バテシバをウリヤから奪ったのである。こうして、バテシバは、ダビデ王の妻となり、ソロモンの母親となった。つまり、バテシバは、自分の夫を殺した者と結婚したのである。これは、この世では許されない非行であったと言える。
しかし、何故それが許され、バテシバが、栄光の王であるソロモンの母親となり、イエスの先祖となったのか。その理由はこうである。エバには、夫となるアダムがいた。サタンは、それを知りながら、エバを奪ったのである。原理としては、そのエバを奪い返さなければならない。つまり、ダビデ王はアダムを象徴し、バテシバはエバを象徴し、ウリヤは天使長ルーシェル(サタン)を象徴していた。それゆえ、イエスが神様と共に成すべき使命は、ダビデ王がウリヤの妻バテシバを奪ったように、サタンの妻のような女性をエバとして、サタンから取り戻すことであった。このような神様のみ旨が示されていたのである。また、ダビデ王は、み旨の通りにウリヤを死なせ、サタンがウリヤのような立場に置かれることを示したため、神様は、ダビデ王を愛し、その息子ソロモンを栄光の王とされた。このようにして、み旨を成就させることによって、イエスに栄光を享受させようとする目的があったために、バテシバのような女性が、イエスの先祖となったのである。
13-12 イエスの母マリアはみ旨に従うことができなかった
イエスは、未婚の処女であるマリアから生まれたが、これは、未婚の処女であるエバがサタンに奪われ、堕落させられたため、神様も、マリアがヨセフと結婚する前に、マリアをヨセフから奪って、第二アダムであるイエスが生まれるようにされたのである。
このようにして、神様は、霊的にマリアを奪ったが、イエスは、肉的にマリアをエバとして復帰しなければならなかった。しかし、マリアは、それに従うことができず、み旨を成就することができなかったため、イエスは、苦難の路程、即ち、3年の公生涯の路程を行かざるを得なくなったのである。そのため、マリアは、イエスにとって、怨讐的な存在となった。それゆえ、イエスは、母親に対して、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネによる福音書2章4節)と言われたのである。神様とイエスは、人間的には理解できない原理を立てようとされていたが、サタンが一番恐れていた、この根本的な歴史の基盤を立てることができなかったのである。これは、サタンが、いつでもイエスと対立できるということを、再び認識せざるを得ない事実となった。このような、想像もできない路程があったのである。こうして、イエスには、貴い命に代えてでも完成させなければならない課題が残ってしまった。
人間的に考えることによって、神様のみ旨を成就させることのできなかったヨセフとマリアは、イエスとは関係の無い生活を送った。この時、イエスの弟子となるべきであった洗礼ヨハネと、その一派も、イエスには、何の助けにもならなかった。こうして、イエスは、荒野生活を始められたのである。
13-13 イエスの荒野40日路程と三大試練の意義
イエスは、ヨセフの家で、大工として働いていた。そして、様々な神様のみ旨を心に抱きながら、それらを成就させることができるように、内的な準備をしていた。しかし、イエスは、母マリアの内的な協力を受けることができなかった。そのため、家を出て、新しい第二次のみ旨を立てようとされたのである。
イエスが、その時代に貴い存在であったということは、洗礼ヨハネがヨルダン川で宣布した通りである。しかし、その後、洗礼ヨハネは、自分の使命を果たすことができず、イエスのみ旨に対する外的な障害となってしまった。
内的にはヨセフの家庭、外的には洗礼ヨハネが、イエスの路程を、あまりにも困難なものとした。こうして、イエスは、単独で怨讐サタンと戦うことになり、荒野において、40日の断食を始めたのである。
この40日路程は、イエスに与えられた路程というよりも、神様が失った様々な条件を、サタンから取り戻すための路程であった。つまり、イエスは、旧約時代に示された神様の責任分担摂理路程を手本として、イエス自身の責任分担摂理路程を行かなければならなかったが、その前に、神様の責任分担摂理路程において、石板や岩に侵入したサタンが、実体のイエスに侵入することを防がなければならなかった。それを成すための路程が、この40日路程であった。
イエスは、第二アダムであり、神様の体として来られた。出エジプト時代に、モーセが十戒の記された2枚の石板を壊した事実と、水を出すために岩を二度打った事実は、イエスの体を打ち、さらに、神様を象徴する岩までも打ったということを意味していた。これは、前述の通りである。このように、神様を象徴する岩が打たれたことによって、サタンがその岩に侵入したということが、イエスの体にサタンが侵入することのできる根本的な原因となってしまったのである。
こうして、人々が再び、不信仰、不従順、不奉仕となるのを、サタンが待ち望んでいたところ、イエスは内外で失敗し、人々が、不信仰、不従順、不奉仕となったため、以前、サタンが、神様を象徴する岩に侵入して、その岩を自分の所有としたように、今度は、その岩の実体であるイエスの体にまで侵入して、イエスを屈服させようとしたのである。これが、サタンの試練であった。サタンは、イエスに試練を与えることで、神様のみ旨を破壊しようとした。このように、サタンには、イエスに試練を与えることのできる重大な理由があったのである。
サタンは、イエスに試練を与えたが、イエスは、その時、神様のみ旨を成就させることのできる立場であったため、サタンの試練に勝利することができた。もし、サタンに、その目的を達成することのできる基盤があったならば、イエスにとっては大事であったが、サタンはイエスをどうすることもできなかったのである。こうして、サタンは去っていき、天使がイエスに仕えるようになった。
イエスは、自身の全目的をかけて、サタンの試練に臨まなければならなかった。サタンは、イエスの重要な目的を見据えて誘惑し、試練を与えたのであり、もしサタンが勝てば、イエスの全目的を破壊することができたのである。
イエスは、神様の責任分担摂理路程、即ち、旧約の路程を、実体として完成させなければならなかった。イエスが、その責任を果たそうとすれば、モーセが失敗した部分を取り戻す必要があった。サタンは、それを知っていたため、その重要な部分に対して、試練を与えたのである。
その初めの試練が、石に関することであった。神様がイエスに40日の断食を要求されたのは、洪水審判が40日であったように、モーセが石板を壊し、岩を二度打ったことに対しても、40日の苦によって、その失敗を取り戻さなければならなかったからである。サタンが、空腹のイエスのところに来て、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(マタイによる福音書4章3節)と言ったのは、モーセが岩を二度打った原因が、イスラエル民族の飲食に対する不満によるものであったため、イエスを彼らと同様の立場に立たせようとして、「あなたも食べなさい」という意味で言ったのである。この時、イエスは、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの
しかし、試練は、まだ残っていた。イエスは、神殿を象徴する存在でありながら、神殿の主人でもあったため、これに関する試練があった。これは、イエスの全目的に関わることであった。サタンは、その全目的をかけるに相応しい内容を示して、次のような試練をイエスに与えたのである。
それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて、言った。「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために
サタンがイエスを宮の頂上に立たせたのは、イエスが神殿の主人であるため、そのようにしたのであり、「下へ飛びおりてごらんなさい」と言ったのは、神殿の主人の立場から降りて、「平民のようになれ」ということであった。そのようになれば、サタンが神殿の主管者となるため、サタンが神様のような立場になる。しかし、サタンは神様の体ではない。従って、神様の体であるイエスの他に、神殿の主人はいないのである。また、「主なるあなたの神を試みてはならない」というみ言は、サタンが神様に試練を与えることはできず、イエスが主人であることは変わらないという意味であった。
このように、イエスは、この試練に勝利し、完成した神殿としての立場を表すことができた。こうして、サタンを退け、人々を神殿として繁殖させることのできる基盤を築いたのである。
最後に、イエスは、次の試練で一大勝利を挙げたのである。
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った。「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう。」するとイエスは彼に言われた。「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、
この試練によって、イエスが至高の存在であることが示された。つまり、サタンがイエスを連れて非常に高い山に登らせたのは、イエスが神様のみ旨において最も貴く、万国においても最も高い存在であり、この世の栄華の全てがイエスのものになるということを知っていたからである。それゆえ、サタンは、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」と言ったのである。これに対して、イエスが「サタンよ、退け」と言われたのは、これらが、原理的には、元々イエスに属していたからである。また、サタンが言った「ひれ伏してわたしを拝め」という言葉は、サタンの本性が露呈したものであり、これは絶対に容認することのできない言葉であった。それゆえ、「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と言われたのである。それは、「私が仕えるのは神様だけであり、あなたも本来は、その方を敬拝する者ではないのか」という意味であった。このように、イエスとサタンは、原理的に戦ったのである。その結果、イエスが原理的に大勝利を収め、この勝利をもって、次の路程へと出発することができたのである。
サタンが去ったため、人々も、イエスと一つになることによって、サタンの試練を乗り越えることができるようになった。つまり、人々も、神殿を完成した者として、旧約の完成者となり、確固たる道を行くことができるようになったのである。その後、イエスは、12弟子と
断食の期間が40日となったのは、前述の通り、洪水審判が40日だったからである。しかし、その元の原因はアダムにある。これは、モーセの40日断食も同様である。つまり、全人類の苦痛は、アダムの堕落から始まった。従って、第二アダムとして来られたイエスには、40日断食の期間に、堕落によって失った全てを取り戻し、40日の苦難を清算しなければならないという責任があった。モーセが40日断食をしたのは、み言を求めるためであったが、み言を成就したイエスが40日断食をされたのは、40日の苦難を清算するためであった。
ここで付け加えたいことは、イエスがヨルダン川で洗礼を受け、川から上がってくる時に、聖霊がハトのようにイエスの上に降りたが、これは、どのような意味であったのかということである。イエスは、神様がアブラハムに約束されたことを成就することのできる中心的存在であった。つまり、アブラハムの供え物にサタンが侵入したため、サタンは離れずに付いてきたが、イエスは、サタンに奪われた裂かなかったハトを取り戻し、その目的を完成させなければならなかった。そのため、イエスは、蘇生を表す供え物、即ち、ハトとして示された旧約時代を完成させ、それを基盤として、新約時代である長成期の羊の時代に入り、本来果たすべきみ旨を始めなければならなかった。これを示すために、ハトのように聖霊が降りてきたのである。
13-14 イエスは弟子を通して割礼の条件を立てようとされた
前述のように、イエスは、荒野生活を終えて、旧約時代の全てを取り戻された。そして、次の路程の第一歩を踏み出すために、ほうぼうを回り、弟子を探された。こうして、12弟子を選び、イスラエル民族に福音を宣布されたのである。これは、旧約時代の信仰である律法による行義の路程から、新約時代の信仰である信義の路程に転換し、福音を成就させることが目的であった。また、イエスは、アブラハムの供え物の目的を完成させるため、
洗礼ヨハネは、イスラエル民族がイエスを信じるようにしなければならなかったが、その使命を果たすことができなかった。そのため、イエスは、弟子たちを選ぶことに対して、どこか不安があった。それゆえ、イエスは、弟子たちを選んだ後、自分を信じさせるために、奇跡を起こして、自分がメシアであることを宣布されたのである。その後のイエスの路程においては、イスラエル民族の結束が先決問題であった。それゆえ、イエスの手本である旧約の路程において、パロに対抗したモーセが、奇跡を見せて、イスラエル民族を結束させたように、イエスも奇跡によって、イスラエル民族を結束させようとされたのである。
神様は、パロのところに行く途中のモーセを殺そうとされた。その時、モーセの妻と息子が一つになって、割礼が成就した。その後、モーセは、積極的にパロに対抗し、イスラエル民族を3日間の路程をもって、荒野に導くことができた。このように、イエスも母親と一つになり、割礼の条件を立てるべきであったが、それができなかったため、それを別のところで成就させようと、弟子を選んで出発されたのである。この条件を立てることができなければ、積極的にサタンに対抗することができないため、それこそがイエスにとって重大な問題であった。つまり、イエスは、割礼の条件を立ててこそ、3日間の荒野路程を出発でき、その3日間を乗り越えることができたのであるが、その時は、割礼の条件がまだ立っていなかったため、イエスは弟子たちを連れて行き、福音を伝えながら、その条件を立てようとされたのである。
13-15 イスカリオテのユダの裏切り
イエスの愛する弟子たちの中に、イスカリオテのユダがいた。イエスは、このユダの協力を得て、割礼の条件を立てようとされた。つまり、ユダの愛人であり、イエスに絶対的に従順であったマグダラのマリアをエバとして立て、サタンがエバをアダムに構わず奪ったように、イエスがユダの愛人を奪って原理を取り戻し、その後、イスカリオテのユダに、マグダラのマリアを与えようとされたのである。サタンにとって、これは重大な問題であった。そのため、サタンは、律法学者やパリサイ人などに騒ぎを起こし、彼らとイエスを対立させた。
その時、ユダだけでも、イエスを全面的に信じていたならば、み旨の基盤を立てることができた。しかし、神様のみ旨を理解できなかったユダは、不満を抱き、自分の先生であるイエスを銀貨30枚で売ったのである。このように、ユダは、イエスを裏切り、怨讐たちと結託するに至った。
こうして、サタン側の彼らは、イエスを十字架にかけよと、イエスに従わない者たちに向かって訴え始めたのである。イエスは、彼らを避けることのできない立場となった。イエスが、「モーセが荒野でヘビを上げたように、人の子もまた上げられなければならない」(ヨハネによる福音書3章14節)と言われたのは、不信仰と不従順によって、サタンが侵入したことを示されたのであり、また、ヘビに噛まれて死にそうになった者が、モーセの作った青銅のヘビを仰ぎ見ることによって死を免れたように、イエスのときにも同様の事が起きると予告されたのである。モーセのときは、民がモーセを信じなかったために、ヘビを上げることになった。イエスのときも、これと同様に、彼らがイエスを信じなかったために、イエスは十字架にかけられることになったのである。つまり、上記のみ言は、十字架にかかってでも、み旨を成就させなければならないというイエスの内心を表している。
ユダが外部の人々と結託することによって、イエスを殺すための工作が展開されたということは、この上もなく恐ろしい事実だと言わざるを得ない。イエスにとって、十字架の路程は、既定の路程ではなく、不信仰と不従順による非原理的な路程であった。それゆえ、ヨハネによる福音書3章12節から14節には、次のように記されている。
「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に
このようになったのは、ただ信じられず、従えなかったからである。イエスが、ユダのことを、「その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」(マルコによる福音書14章21節)と言われたのは、不信仰と不従順によって、み旨を破壊した存在が、イスカリオテのユダだったことを示されたのである。
13-16 律法学者やパリサイ人たちに対する七つのわざわいのみ言
イエスは、律法学者やパリサイ人たちに向かって、「ヘビよ、まむしの子らよ」(マタイによる福音書23章33節)と言われ、彼らが不従順の血を受け継いだ者たちであることを指摘された。このように、彼らの先祖をヘビに例えられたのは、的確な表現であったと言える。ヨハネによる福音書8章44節に、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と記されているように、彼らの父が、ヘビに象徴されるサタンであると言われたのである。
律法学者やパリサイ人たちが、不信仰、不従順、不奉仕の立場で、ヘビの行いをしていることに対し、イエスは、七つのわざわいのみ言(マタイによる福音書23章13節から36節参照)をもって、彼らを叱責された。
イエスは、この時、既に山の上でモーセとエリヤに会い、後に自分がエルサレムで死を迎えることを聞いていた。(ルカによる福音書9章30節から31節参照)こうして、イエスは、自分の果たすべきことを知り、十字架を覚悟された。それは、神様のみ旨を成就させなければならなかったからである。
イエスが、律法学者やパリサイ人たちを、七つのわざわいのみ言で叱責された時、その心中はこうであった。「あなたがたの先祖たちは、サタンと一つになるための基盤を固めてきたが、私に対してまでも、怨讐としての行動をとるのか。あなたがたの中には、神様の悲しむ刑罰を免れることのできない歴史的な結実がある。」彼らの罪の内容を見れば、不信仰、不従順、不奉仕によってサタンが侵入し、その結果が現在にまで至っていることは明らかである。
サタンの侵入は、アダムから始まったが、その影響は、子孫を通して引き継がれてきた。つまり、神様側のアベルを殺したカインの行為が、イエスの路程にも現れたのである。このように、罪の始まりは、カインからであり、アダムは、その根であった。サタンは、アダムからカインを通して、人類に侵入した。その順序を追ってみると、アダム、カイン、ハム、アブラハム、モーセ(石板と岩)、ヨセフとマリア、イエスの怨讐となった者たち、となっている。
また、サタンが侵入した原因は、不信仰、不従順、不奉仕などの行為であった。それを指摘したのが、マタイによる福音書23章に記されている七つのわざわいのみ言である。では、そのみ言の意義を調べてみよう。
最初のみ言は、次の通りである。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。」(マタイによる福音書23章13節)
このみ言によって、次のように叱責されたのである。「やはり、あなたがたの行動は、見せかけの行動である。つまり、神様のみ意に従わなければならない立場でありながら、そうではない立場で、神様のみ意に従っているかのように行動している。あなたがたは間違いなく、あなたがたの先祖であり罪を犯した者、即ち、カインと同じ血統を受け継いでいる。そのカインは、神様のみ意とは別のところにいながら、み意の中に立っている者のようにしたが、それが成就しなかったため、アベルを殺したのである。あなたがたも、そのカインと同じように、み意とは別のところにいながら、み意の中に立っているかのようにして、アベルのような私イエスと向き合っている。カインは、自分の行動によって、全ての人々が入ろうとする天国の門を閉ざしたが、あなたがたも、それと同じような行動をとろうとするのか。カインは、み意から外れた行動をとって、アベルを殺したが、あなたがたも、そのカインと同じような立場に立って、私イエスの血を求めるのか。あなたがたは、やはり、カインの血を受け継いだ者たちであり、彼の罪を結実させようとする者たちである。罪を犯したカインは、善しとされない立場に立ったが、あなたがたも、彼と同じ立場に立つことになるのである。今、私は、天国の門を開こうとしているが、あなたがたは、その門を閉ざし、他の人たちまで入らせないようにしようとしている。正にサタンのような、み意の破壊者である。」
二つ目のみ言は、次の通りである。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」(マタイによる福音書23章15節)
このみ言によって、次のように叱責されたのである。「洪水審判後、サタンは、海と陸を隅々まで回りながら、自分の思いに合う者を探し、見つけたら、彼らを自分のものとして、地獄の子を増やしていった。あなたがたも、それと同じような行動をとっているのであるから、ハムの子孫であることに間違いはない。あなたがたは、ハムがサタンの喜ぶ行動をとったように、自らサタンの基盤を築き、他の兄弟たちにまで、サタンの思いに協力させようとするのか。あなたがたは、地獄の子を増やそうとしたハムの子孫であり、彼の結実である。あなたがたは、自分の思い通りに行なって、サタンの求める罪の量を満たすがよい。私のところに来れば、地獄を避けることができるのに、私のところに来ようとする人まで止めようとするのか。」
三つ目のみ言は、次の通りである。
「盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿を指して誓うなら、そのままでよいが、神殿の
この次に記されているみ言も、同様の意味を持つ重複した内容である。では、上記のみ言は、どのような意味を表しているのか。それは、信仰の父であるアブラハムの供え物は、彼の失敗によって、誓いとはならず、意味の無いもののようになったが、イサクの
もし、アブラハムが、供え物に失敗しなければ、イサクにまで手をかける必要はなかったが、その時、供え物に失敗したことで、サタンが侵入し、その後も子孫にサタンが侵入し得るようになった。つまり、モーセが岩を二度打って失敗したのは、エジプトの生活を通して、イスラエル民族にサタンが侵入したからである。それゆえ、供え物は、神様のみ意通りにすべきだとして、次のように指摘されたとも言えるのである。「アブラハムが供え物のハトを裂かなければならなかったように、あなたがたも、今、そのような立場に立っている。あなたがたもアブラハムの子孫であるが、アブラハムのように、神様のみ意をいいかげんに受け止めれば、私イエスにまで手をかけることになるであろう。天と地を分別して、天のみ意に従うべきであるが、それができなければ、アブラハムと同じ結果になるであろう。」
四つ目のみ言は、次の通りである。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ブヨはこしているが、らくだはのみこんでいる。」(マタイによる福音書23章23節から24節)
このみ言によって、次のように叱責されたのである。「モーセが2枚の石板を壊したのは、十戒のみ言を授かって来たが、人々が、それとは関係の無い立場で、神様のみ意に反していたため、既に十戒の意味が無くなったと考えたからである。あなたがたも同様に、十戒の本体のような私イエスを望んではいない。ほんの十分の一の枝葉のような取るに足りないもので、神様のみ旨が全て成就すると言っている者たちよ。その結果は、神様のみ旨に反するものとなり、私イエスにまで手をかけることになるであろう。み旨を知らず、それを信奉できないために、失敗するのである。あなたがたの行動は、依然として、十戒を授かったモーセの前にいた人々のようである。あなたがたも同様に、神様を離れ、サタンの相棒となるのか。結局は、モーセが2枚の石板を壊したときと同じようになるであろう。」
五つ目のみ言は、次の通りである。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は
このみ言によって、次のように叱責されたのである。「モーセが、岩から水を出して与えた時、表面上では、神様とイスラエル民族が喜んでいるかのように見えたが、イスラエル民族の内面は、貪欲と不義とで満ちていた。そのため、その結果が、神様のみ意に反するものとなったのである。イスラエル民族が、内面を清め、神様のみ意と一つになっていれば、神様は喜ばれたのである。しかし、神様のみ意を離れて行動したため、不義とされた。こうして、民族の汚れが神様を汚し、地の汚れが天を汚したのである。かつてイスラエル民族が、神様のみ意を離れて、モーセが岩を二度打ったように、あなたがたも、神様のみ意を離れて、私イエスを打ち、杯と皿を汚す者になろうとするのか。あなたがたは、天と地に対して、罪を犯すことになるであろう。」 このように叱責しながら、十字架まで背負うことになったと明かされたのである。
六つ目のみ言は、次の通りである。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。」(マタイによる福音書23章27節から28節)
このみ言によって、次のように叱責されたのである。「ヨセフとマリアは、自分たちの体面を保とうとした。その行動は、神様のみ意に反するものであり、結局、サタンの喜ぶ結果となった。こうして、サタン側の基盤ができたのである。このような結果になったのは、私がこの世に受け入れられていなかったからである。あなたがたが怨讐サタンと一つになって行動するのは当然である。あなたがたの望む通りにするがよい。」
最後のみ言は、次の通りである。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。あなたがたもまた先祖たちがした悪の
このみ言によって、次のように叱責されたのである。「律法学者やパリサイ人たちが、歴史的な血統を継承してきた者たちであることに間違いはない。だから、預言者と義人の墓を飾り立てるのか。結局、私イエスに対しても、このような行動をとるのか。そうしながら、自分たちの行動が、最高の善行であるかのように見せかけ、サタンの血統を受け継いできた目的を果たそうとするのか。あなたがたの行動は、サタンが求めている悪の量を、全て満たそうとする行動である。だから、私は、あなたがたの要求に応じて、罪の量を全て満たしてあげよう。これからも、あなたがたは、預言者と義人の血を流すであろう。しかし、これらの罰は、あなたがたが受けるのである。」このように、律法学者やパリサイ人たちに対して、最終的な宣言をしながら叱責されたのであり、また、「サタンと合意した最高の目的を達成したければしてみよ」という決意を示されたのである。このように、彼らの罪を結実させるため、十字架まで覚悟し、歴史を通して侵入してきたサタンの悪を満たすようにされた。そして「あなたがたは、七つのわざわいのみ言が根拠となり、歴史的な義人の血の代価を、誰よりも受けるであろう」と、イエスがこの上なく大きな事件の渦中に立っていることを示されたのである。
七つのわざわいのみ言は、律法学者やパリサイ人たちが、堕落の血統を継承してきた者たちであることを次々と指摘し、彼らのそれまでの罪の行動と、イエスに対する罪の行動が、堕落の血統による行動であると断言して、叱責されたものである。この叱責こそ、イエスの十字架の路程が、そう遠くない将来にあることを念頭に置いた、律法学者やパリサイ人たちに対する最後の叱責であった。心中では、「結局、あなたがたの先祖の血統を結実させようとするのか」と思いながら、「あなたがたもまた先祖たちがした悪の
その後、彼らはイエスを殺して、罪の量を満たしたのである。こうして、罪の目的であるイエスの体を彼らに取らせた。結局、この十字架の路程によって、彼らの罪は結実したのである。
サタンは、取るものを完全に取ったため、未練を残すことはなかった。それ以前は、モーセが石板を壊し、岩を二度打ったという行動が、イエスの肉身を取ることのできる条件となっていたため、サタンは、自分の持っている条件に未練があった。つまり、イエスの十字架によって、サタンの持っていた条件が、清算されたのである。
13-17 十字架以降の路程
神様は、イエスを送り、み旨を果たそうとされたが、サタンは、そのみ旨の道をふさごうとしてきた。結局、神様は、サタンにイエスの肉身を殺すことを許され、サタンは、それを実行した。しかし、それには、神様のみ意があった。
サタンは、自分が取ることのできる最高のもの、即ち、イエスの肉身を取った。しかし、ここからは、神様がサタンから人々を取ることのできる路程となった。これが、イエスの十字架以降の路程である。神様は、サタンから人々を取ることができるように、イエスと聖霊によって、人々を清め、善なる存在とするための摂理を始めようとされていた。これが、サタンにイエスの肉身を取らせた理由である。このように、イエスは、十字架の路程によって、サタンに終局を迎えさせるための犠牲となられたのである。
このイエスの犠牲と同時に、善側の攻撃が始まった。それまでは、サタンがイエスを攻撃してきたが、イエスの十字架以降は、イエスが攻撃を始め、サタンが守勢に回るようになった。つまり、イエスは、十字架の路程によって、原理的な条件を立て、新しい路程を出発したということである。これは、モーセが原理的な起点に立って、3日路程を出発したことと同様である。こうして、聖徒の信仰生活が始まった。それは、荒野生活のようであったが、神様によって、勝利することのできる路程であった。
次に、罪の根を切る段階に入ると、イエスは、サタンを屈服させるため、世界に信義の信仰を立てられた。つまり、信じる者を神様側とし、不信仰、不従順、不奉仕なる者をサタン側として、人々を分立するための分岐を確立された。このようにして判決を下すことが、イエスの福音の歴史的な使命である。ある人が、その判決によって、神様側に属せば、その人からサタンが離れるという原理になっている。ここに、勝利するための基本的な原理がある。
本来、全ての人々は、神様側に属していなければならない。それゆえ、神様は、それを実現しようとされた。しかし、サタンは、人々を奪われないよう、神様に抵抗してきた。そのため、神様とサタンは、歴史的に対立するようになったのである。こうして、人類は、神様に属する者と、サタンに属する者とに分立されてきた。その記録が、人類の闘争の歴史である。
もし、イスカリオテのユダをはじめ、律法学者やパリサイ人たちが、イエスを信じ、従っていたならば、このような事は起こらず、人々はイエスを守り、サタンに攻勢をかけながら、勝利することができたのである。
13-18 イエスと聖霊のはたらき
イエスは、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイによる福音書26章39節)と祈られた。これを見ても、十字架の路程が、既定の路程ではなかったと言える。しかし、その時は、既に肉身ではみ旨を成就させることのできない立場であったため、十字架で死んで、霊的な路程となっても、み旨を成就させて、サタンに勝利しなければならなかった。このような使命があったため、霊になっても、エバの存在を取り戻すことのできる道を開いて、十字架に向かわれたのである。つまり、イエスは新郎、信徒は新婦として、み旨成就の基盤を築いた上で、イエスは十字架に向かわれ、モーセの3日路程のような路程を、死をもって出発されたのである。
今まで神様は、摂理を通して、エバを取り戻そうとされてきた。それゆえ、イエスは、霊になった後も、信徒を新婦とする世界的なみ旨に向かっていかれたのである。
イエスが昇天された後に、聖霊の降臨があった。イエスが送られた聖霊は、エバの神である。エバの神は、イエスが夫であることをよく知っている。それゆえ、エバの神である聖霊が人の心に入ると、人は感動し、イエスを夫のように思い慕うようになるのである。こうして、人が、天の霊的なイエスと一つになったとき、人に霊的生命が注入されるようになる。しかし、根本的に、罪を犯したのはエバであるため、罪を清算する直接的な役割は、エバの神である聖霊が果たさなければならない。そのため、聖霊は、人の心に作用するのである。イエスと聖霊の基本的な役割は、このようにして、世界の人々を、堕落する前のアダムとエバの基準にまで引き上げることである。また、聖書に「聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」(マルコによる福音書3章29節)と記されているのは、エバの神である聖霊が、弱い神だからである。
我々は、イエスの生命要素を受けながら、怨讐と戦い、カナン福地のような天国を目指して、自分自身を神殿として完成させなければならない。このように、神様に仕えることを目的として、今まで歩んできたのである。
もし、イスカリオテのユダが、イエスを信じ、ユダの愛人であるマグダラのマリアが、イエスと向き合うことのできる基準にまで上がっていたならば、聖霊が降臨し、イエスはアダムとして、マグダラのマリアはエバとして、一体になる理想を実現することができたのである。このように、イエスを信じていれば、神様のみ旨を成就させることができたのであり、ここで、サタンを根本的に屈服させることのできる条件が成立するはずであった。しかし、今までは、それが霊的にのみ成立していた。その理由は、イエスが肉身によって、み旨を成就させることができなかったからである。それゆえ、再臨することによって、み旨を完全に成就させることにして、昇天されたのである。従って、必ず肉身をもって再臨されなければならない。今、2千年の歴史が、繰り返しの起点に戻ろうとしている。この2千年の期間を無駄にしたのは、ユダがイエスを信じずに、従わなかったことが原因となって、パリサイ人たちが不信仰、不従順、不奉仕に陥り、あってはならない失敗をしたからである。
13-19 イエスの死と復活の意義
前述のように、出エジプトの路程は、イエスの基本路程の手本となっていたが、そこで、石板と岩にサタンが侵入したことにより、サタンは、イエスの体にまで手をかけることができるようになった。結果的に、イエスは、十字架を背負うことで、その条件を清算されたのである。
サタンは、イエスの体が目的で、神様のみ旨に反抗していた。つまり、イエスの十字架は、サタンが持っている全ての条件、即ち、全ての罪の結実であった。別の見方をすれば、イエスが生きている限り、その罪は、効力を有していることになるため、イエスは、死をもって、その罪の効力を失わせる
また、神様がイエスを復活させることによって、み旨を継承させることができたのは、神様が最高権限を行使されたからである。これは、サタンが干渉することのできない生命に対する神様の権能である。サタンができることは、殺すことまでであり、生かすことは、神様にしかできない。つまり、イエスの十字架による死は、サタンの最大の力を示すものであった。しかし、サタンは、イエスを復活させた神様の権能の前に居場所を失い、神様から離れざるを得なかった。これが、イエスの復活の摂理であった。
13-20 イエスが信義の信仰を立てられた意義
イエスが、十字架によって、信義の信仰を立てられたということは、神様の新たな摂理が始まったということである。アダムとエバは、この信義の信仰を立てることができずに堕落したのである。サタンの本質は、信義ではなく、不信であるため、信義の立場に立った人々は神様側となる。これは、前に述べた通りである。
第二アダムとして来られたイエスは、堕落以前のアダムの立場であったため、人々が信義の立場に立ち、イエスのみ言に従うことによって、堕落以前のアダムの位置にまで向上することができる。堕落とは、不信によって、その位置から落ちたということであるが、イエスの立てられた信義の信仰が、その位置にまで向上することのできる基盤となったのである。このような原理的復帰によって、人々がアダム以上の立場となれば、天国の生命が注入されるということを知らなければならない。
信義は、イエスを通して神様につながることのできる生命の基礎である。この基礎が、確固たるものになってこそ、神様のみ旨を成就させることができる。それゆえ、イエスは、信義の立場に立っている人々を愛そうとされる。この愛によって、その人々に生命が注入されるのである。ただし、聖霊のはたらきによって、イエスを思い慕うようになってこそ、その生命を受けることができる。
アダムとエバは、神様の希望を成就させることができなかった。それゆえ、信義の信仰生活の中で、神様は我々に希望を与え、我々によって、その希望を成就しようとされるのである。
13-21 十字架による勝利の意義と信仰者の路程
ところで、イエスは、十字架によって、何を勝利されたのか。人々は、サタンの霊的な血を受けることによって、神様から離れてしまった。イエスは、サタンの霊的な血を受ける道を遮断し、人々に霊的な生命の血を与えるため、復活後に昇天されたのである。ここに、全ての人々を霊的に取り戻そうとする神様のみ旨があることを知らなければならない。
もし、十字架の路程が必要なかったならば、イエスは、霊と肉を合わせて、み旨を成就させることができたのである。それができていたならば、再臨は必要ではなかった。しかし、人々がサタンと一つになっていたため、そのようにはならず、サタンを分立して、人々を霊的に取り戻さなければならなくなった。今までイエスは、神様の愛によって、その役割を果たされてきたため、美的存在の立場を取ってきたのである。それが、キリスト信仰におけるイエスの姿である。
サタン側は、不信仰、不従順、不奉仕の立場を取り、神様側は、信仰、従順、奉仕の立場を取ってきた。歴史の中で、このような分かれ道が与えられたため、イエスの十字架以降、サタンは衰退していったのである。
十字架以降の信仰生活は、旧約の出エジプトからカナンまでの路程を、霊的に歩む路程となった。これは、イエスが霊的路程を出発することのできる条件を満たしたからである。つまり、モーセが、二度目に手を懐に入れたとき、神様が、らい病を治されたように、第二アダムであるイエスは、天のヘビとして、また、生命の道として、この世の人々に、霊的な生命の血を与えることができるようになったのであり、さらに、イエスと聖霊が一つになったため、人々に、その霊的な生命の血を受けさせ、人々を霊的に引き上げることができるようになったのである。
こうして、イエスは、信徒と共に出発した。このように、天を信じて、信仰生活の路程を出発しようとするときには、モーセとパロとの戦いのような、神様側とサタン側の対立があり、これに最後まで耐えて勝利し、条件を満たしてこそ、出発することができるのである。つまり、旧約の歴史に示された事実に従うことによって、信仰生活の路程を出発することができるようになっている。そして、その路程において、信仰が絶対的であれば、万事を勝利できるが、そうでなければ、イスラエル民族のような道を行くことになるのである。
エジプトを出発したイスラエル民族は、紅海を前にして怨讐に追われ、その後、荒野で苦難の生活をし、また、アマレクの攻撃に遭い、さらに、ヘビに襲われることなどもあった。このように、信仰の試される出来事を越えていくのが、我々信仰者の路程である。これが、自分の十字架を背負って、荒野路程を行かなければならない理由である。それゆえ、イエスは、弟子たちに次のように言われた。「自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。」(マタイによる福音書10章38節)このみ言に歓喜する者だけが、弟子にふさわしいと宣言されたのである。
13-22 誰よりもイエスを愛さなければならない
不信仰の世界から信仰の世界へと出発しようとすれば、誰よりもイエスを愛さなければならない。これは、どの程度の愛であるのか。マタイによる福音書10章34節から39節には、次のように記されている。
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」
このみ言は、イエスの時代においても、また、その後の時代においても、人々が容認することのできない一大革命的な宣布であった。今まで人々の家庭は、サタンの思いと理想を実現させるための手段となっていた。そのため、神様のみ旨を成就させることができなかったのである。それゆえ、神様にとって、家庭は、憎むべき生活の舞台であった。それまで愛してきた父母、兄弟、妻子は、サタンの喜ぶ存在だったのである。
このように、神様は、サタンに属する家庭を愛することができないため、サタンから離れることのできない家庭を顧みられず、神様に属することのできる家庭を準備したうえで、善なる義を立てようとされるのである。
今まで皆は、普通に家庭生活をしてきたかも知れないが、イエスを信じてからは、自分の家庭よりも、イエスを愛さなければならない。例えば、この世の愛を10程度とするならば、イエスを10程度で愛しても、それは以前、サタンに属していたときと同じ程度の愛である。もし、それ以上の愛が無ければ、神様は、サタンの基盤を超えられない立場で、み旨を始めざるを得ない。つまり、神様の基盤が、サタンの基盤を超えるためには、皆が10を超える愛で、イエスを愛さなければならないのである。
このような愛を理解するのは、難しいことかも知れない。別の言い方をすれば、サタンに与えた10の愛を、善なる10の愛で帳消しにしても、神様には何も残らないため、神様は10よりも上の愛を要求されるということである。そして、10の愛を超えれば、神様は、その超えたところに、ご自身の愛を注入しようとされる。この神様の愛が注入されることによって、人は霊的に復活し、生まれ変わるのである。
人が神様の愛を求めると、サタンは、それに激しく反対し、家族と対立するようにさせる。つまり、神様とサタンは、人を通して対立するのであり、家族を仲たがいさせると言われたのは、このような原理に因るのである。
しかし、これを問題とはせず、十字架にかけられようとも、最後まで諦めず、命をかけて勝利しなければならない。「家族を愛する者は、わたしにふさわしくない」というみ言は、家族の反対を乗り越えていかなければならないという宣言だったのである。このような信仰観をもって、み旨を成就させようとした信仰者が何人いただろうか。イエスは、自分の思いが人々に受け入れられることを願わずにいられない立場にあって、どれほど辛い思いをされただろうか。
我々は、み旨を成就させるために、また、サタンを敗北させるために、如何なる十字架をも背負って行かなければならない。そして、イエスの新婦となるために、各自がイエスを愛さなければならない。イエスは、我々に、これらのことを期待しておられるために、「家族を愛する者は、わたしにふさわしくない」という宣布をされたのである。
13-23 イエスの地獄伝道の意義
本来、地獄は無かった。しかし、人がサタンに誘惑され、その後、神様側とサタン側の分岐が生じたため、非原理的な地獄ができたのである。人が、神様の怨讐であるサタンと結託すれば、その報いとして、霊人となったときには、地獄に行くことになる。しかし、本来は、そのように創造されていなかった。つまり、地獄とは、堕落して神様を離れた霊人、即ち、不従順な霊人を処罰するところである。
地獄に行った霊人たちは、地上の堕落した世界から行ったのである。たとえ、人々が未熟で、そのようになったとしても、その原因は、アダムが最初に堕落を防ぐことができなかったことにある。従って、アダムが、地獄に行った霊人たちの責任を負わなければならない。
それゆえ、第二アダムとして来られたイエスが、その責任を負うことになった。地獄に行った霊人たちは、本来、神様に属していなければならない存在であるため、彼らにも、生命要素を受けることのできる道を開かなければならない。そのため、イエスは、地獄にまで行き、伝道せざるを得なくなったのである。
このように、イエスは、十字架以降、地上の人々だけではなく、地獄にいる霊人たちまでも、蘇生することのできる道を開くために、この上ない苦しみと闘いながら、救援復帰路程を出発し、途方もない期間を経てきたということを知らなければならない。人々の犯した罪は、自分たちの荷となり、とげとなっている。そのため、その荷を降ろして、清めてこそ、遠い光を望みながら、成長することのできる特赦の路程を出発することができるのである。イエスの地獄伝道には、以上のような意義があることを知らなければならない。
霊人の世界では、善に対する感性は鋭いが、悪に対しては感性が鈍いため、霊人たちから悪を分立させることが難しい。しかし、長い期間を要しても、いつかは成長して善に向かうことができる。
人は、肉身生活では、罪に対する感性が鋭いため、善の方向に早く成長することができる。しかし、霊人の世界は、そうではないため、周期的に善に向かうことのできる機会を得たときに、生命要素を受けることができるようになっている。こうして、地獄に行った霊人たちも、善なる生命要素によって、悪より善が成長するように助けられるのである。
イエスの生命要素は、地獄の霊人たちを蘇生させることのできる要素ではあるが、それは、善の行いがあってこそ、それ相応に受けることができる。イエスの十字架以降、地獄でも、このような恩恵を受けることができるようになったのである。サタンは、イエスの地獄伝道に対して、反対できる立場ではなかった。何故なら、生命を蘇生させるのは、神様の権限だからである。
ペテロの第一の手紙3章19節から20節には、次のように記されている。
こうして、彼は獄に捕らわれている霊どものところに
また、ペテロの第一の手紙4章6節には、次のように記されている。
死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。
これらのみ言を見れば、地獄の霊人たちに、特別な恩赦を与えることが、イエスのみ旨であったと理解できる。このようにして、地獄を撤廃してこそ、神様のみ旨が完全に成就されるのである。果たして、それは、いつになるのであろうか。
13-24 イエスの使命は人々を堕落前の段階に引き上げること
もし、アダムとエバが、堕落せずに完成していたならば、二人は神様の体となり、地上を天国のようにしていたであろう。しかし、二人は完成段階にまで至らず、途中の過程で堕落したため、後退の一途をたどることになった。こうして、非原理的な子女が繁殖し、神様から憎まれる世界となったのである。
神様が、その世界を取り戻すためには、世界の人々を、アダムとエバが堕落する前の段階にまで向上させなければならない。そうしてこそ、神様がみ旨を展開し、人々を完成段階に進めることができる。この目的を果たすために、第二アダムであるイエスが来られたのである。結局、イエスは、十字架によって、この基盤を立てざるを得なかった。人々を堕落前の位置にまで向上させ、次の完成段階へ進めるためには、神様を中心とするアダムとエバ(イエスと聖霊)が、人々の中に隠れている罪とサタンを取り除かなければならない。
アダムとエバが堕落した段階は、生命級(長成期)であった。生命級とは、霊人の成長段階を示すものである。イエスに残された使命は、旧約時代を通して基礎を固めた霊人に、生命要素を注入し、新約的な生命級にまで引き上げることであった。
イエスが昇天された後、まず、天にいる聖徒たちがイエスを迎えた。そして、イエスは、天の霊人たちを生命級にまで上がることができるようにされた。これと同様に、地上にいる人々の霊人を生命級にまで引き上げることができれば、アダムが堕落する前の段階にまで挽回することができる。これを成そうとするイエスに、聖霊(エバの神)が協力して、キリスト教が発展したのである。
今まで、天にいる聖徒たちは、地上の人々の霊人を、早く生命級にまで復帰して、み旨を成就させようと、総動員で地上を支援してきた。これに対して、サタンは、地上の人々を通して、み旨に反対し、天と対立してきたが、サタンが敗れたため、その勢力は衰退し、み旨が前進したのである。
13-25 義人たちの血が悪の血を清めてきた
サタンは、歴史を通して、キリスト教信徒を迫害してきた。つまり、サタンは、先に主権国家を立て、その主権機関が、キリスト教信徒を虐殺するなどして、反対してきたのである。
その主権が、悪の側から天の側に移行していくまでに、大勢の義人が殺害された。それは、神様がそのようにされたのである。その義人たちの血が、悪の血で汚された世界を清めるという、身代わりの
このようにして、神様は、み旨を成就させることのできる時期を、待ち望んでこられたのであるが、そのために、イエス、聖霊、天の聖徒たち、地上の聖徒たちが、準備をしてきたのである。こうして、世界の暗闇を清算して清める時期が来れば、それが、再臨前の審判時代であるということを知らなければならない。
13-26 子羊の婚宴
神様は、この地に、新郎新婦の理想を実現しようとされたが、アダムとエバは、神様を中心として愛し合うことのできる夫婦となることができなかった。また、イエスと聖霊も、肉身をもって、み意にかなった夫婦となることができなかった。その理想は、地上再臨の時から実現されるのである。それゆえ、地上の信徒に、歴史をかけて成すべき新郎新婦の理想が示される。この理想を実現し、世界の暗闇を取り除くのである。従って、それを果たすことが、我々の目的である。この時期は、天と地が共に完成することのできる重要な出発点となる。それゆえ、神様は、天と地の全ての聖徒が一つになり、その目的が成就されることを待ち望んでおられるのである。
この時期に、堕落せずに完成した創造理想の夫婦、即ち、神様の体として、神様と一つになった夫婦が現れる。地上の信徒たちは、その夫婦を人類の祖先として迎え、その夫婦の養子として、間接的な跡継ぎの立場に立つことができる。その夫婦によって行われる婚宴が、子羊の婚宴である。
それゆえ、その夫婦、即ち、人類の祖先となる父と母を迎える最初の日が、再臨成就の重要な日となる。こうして、この地に創造された人類の祖先を、ようやく迎えることができるのである。これが、神様の創造理想であり、この理想が実現されることによって、天国生活が始まるということを知らなければならない。
今まで神様は、天の父として居られたのであり、天の母がいなかったことを知らなければならない。このような事を考えもしなかった人々を見るときに、天の父の心中は、いかばかりであっただろうか。この問題は、未だに解決されていないのである。
天の父母が成立してこそ、子女の家庭組織を築くことができる。それが実現されることを、天は長い間待ち望んできたのである。地上において、そのみ旨を成就しなければならない存在が再臨主であるため、この方が地上に居られるとしても、天では再臨主夫妻を父母として仕えなければならない。そうしてこそ、今まで成就できなかったこと、即ち、父母に仕えるということを、地上の聖徒たちが、天の聖徒たちの代わりに果たすことができる。それゆえ、天の聖徒たちは、父母に仕えるために、我々と一つになろうとするのである。
天の人も、地の人も、根本となる父母に仕えなければならない。そうしてこそ、地上から永遠の生活が始まり、地上の夫婦は、天でも夫婦として、永遠の家庭を築くことができるのである。
このような時代に、再臨主は、父として来られる。イエスと聖霊は、この時が早く来るように、努力してこられたのである。つまり、再臨の基台を立てるために、イエスは、昇天後も摂理をしてこられたのであり、第二アダムであるイエスが果たすことのできなかった目的を果たすために、再臨主は、第三アダムとして来られるのである。そして、再臨主は、み旨を成就して夫婦となり、新しい天国の家庭を築くために、血統を転換する聖婚式を全世界に伝え、新郎新婦たちに、神様の体の一部分(
この時期に、イエスと聖霊によって成長し、堕落前のアダムの段階、即ち、生命級に至った者たちは、必ず、アダム、エバとされる存在に出会うことになる。それゆえ、現時点において、「夫婦を成せる資格のある者」だと啓示を受ける信徒が、多く存在していなければならない。根本となる人類の祖先、即ち、父である再臨主を迎えるための準備は、既に世界の各地で始まっているのである。
13-27 準備された者は再臨主を迎えなければならない
イエスと同じ段階の生命級(長成期)に至れば、「あなたは主である」と啓示を受ける者がいる。そのため、終わりの日になれば、あちらこちらで、「私は主である」という者が、多く現れるようになる。しかし、それらの根は一つのところにある。そこは、全天宙に潜む神様の全てが一つになっているところであり、啓示は、そこから伝えられるべき人々に伝えられる。そして、準備された者は、天の家庭を築くために、その機会をつかまなければならない。そうしてこそ、その子女たちによって、神様を中心とする世界が始まるのである。
こうして、生霊体まで完成すれば、理想の人体構造として完全なものとなる。これを果たすためには、再臨主を迎えなければならない。そうしてこそ、世界は復帰されるのである。ここで、「人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイによる福音書24章30節)という聖句の意味を知らなければならない。人の子とは、再臨主のことであり、天の雲とは、再臨主を迎える信徒たちのことである。
では、イエスは、どのような立場になるのかと言えば、全ての人々の長子として、また、中心として、再臨主を迎える立場となる。従って、後に来られる再臨主が、根本的な存在であることは言うまでもない。
再臨主を中心として、地と天のみ旨が始まり、6千年の歴史の完成へ、また、神様の目的の達成へと向かうのである。これは、地の喜びであり、天の喜びである。このような時代が来てこそ、神様の全てのみ旨を成就させることができるのであり、二度と
マタイによる福音書16章27節には、「人の子は父の栄光のうちに、
以上のような原理を知るときに、霊となる我々は、神様にとって、どのような存在であるのか。この問題を解くことは、各自に任せることにしよう。