12 神様の責任分担摂理期間

12-1 ノアの家族は神様とサタンの間にあった

洪水審判の後、ノアの8人家族は、第二次として、神様のみ旨の路程を出発した。それゆえ、ノアの家族は、従順な立場を取って、神様のみ旨を果たさなければならなかった。

サタンは、洪水審判によって、自分を崇拝していた全ての人々を失ったため、自分の思いを果たすことのできる対象がいなくなってしまった。しかし、神様のみ旨から外れた人がいれば、サタンは、その人を取ろうとしていたのである。それゆえ、サタンは、神様に逆らうことを断念せず、ノアの8人家族に未練を持ち、その中に、自分が取ることのできる人がいるのか、つまり、神様のみ意に反する行動をとる人がいるのか、ということに注目していたのである。このような立場に立っていたのが、ノアの8人家族であった。

この家族は、神様とサタンの間にあっても、み旨を果たす方向に進まなければならなかった。しかし、神様側に行こうとすればサタンが伴い、サタンに従えば神様が離れるという原理を知っていたのではなかった。そのため、どの方向に進み、如何なる結果をもたらすかは、人に許された自由行動によって左右される問題であった。それゆえ、この家族は、天の全てが期待する希望の存在でありながらも、サタンに狙われている存在でもあった。


12-2 ノアの家族と同様に我々も原理を知らなかった

このような摂理の実状を知るときに、人は、どれほど神様を尊んでこなかったのかと嘆息たんそくせざるを得ないのである。しかし、これまでに述べた原理を知れば、我々は今、緊迫した状況に置かれているということが理解できる。また、我々は今まで、このような原理を知ることができなかったために、自分たちの存在価値や神様に関すること、また、サタンに関することなどは根本的に分からず、ただ歴史を通して、その結果を知ることによって、神様とサタンとの関係が正反対であるということを知っていただけなのである。従って、このような原理を知ることのできる恵まれた時代に生まれ合わせたことは、この上もない幸福であると言える。


12-3 ノアの家族に対する摂理はハムによって失敗した

ノアの家族が、み旨を果たすことができれば、ノアの子孫は、神様の子孫となっていた。このように、ノアの家族の行動は、人がサタンに取られるかどうかを決定する重要なものであった。その時、ノアの8人家族には、罪という考えさえもあってはならず、神様の義だけがなければならなかった。つまり、神様の好まれない行動があってはならなかったのである。

聖書には、次のような物語が記されている。洪水審判の後、ノアは農夫となり、ぶどう畑で農作業をしていた。ある時、ノアが、ぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸で寝ていた。それを見たノアの息子ハムが、裸で寝ている父親の姿を恥ずかしく思い、兄弟たちのところに行って、その事を告げた。すると、セムとヤペテは、衣を持って、父親の裸を見ないように、後ろ向きで入っていき、父親の裸をその衣で覆ったのである。

神様は、何故、このようなハムの行動を好まれなかったのか。それは、今日まで未解決の問題であった。しかし、原理を知れば、その問題は解決されるのである。この行動は、何を象徴していたのかと言えば、アダムとエバの裸に対する羞恥を再現したものであった。それゆえ、ハムの行動は、神様にとって、この上もなく見苦しい行動だったのであり、サタンにとっては、ハムが自分の側であることを示す行動だったのである。つまり、ハムの行動は、堕落性の継承を現したことになり、サタンにとっては、ハムが自分のものであることを神様に主張できる根拠となったのである。

このように、ハムの行動は、人が堕落した時の羞恥そのものであり、それが、アダムの種によるものであるという事実を暴露するものであった。神様が審判をされたのは、人が堕落したからであったが、その審判の後で、このような事実が露呈したため、神様は痛憤せざるを得なかった。この事実は、人が堕落した直後に、サタンの性質が人に継承されたという証拠であり、また、神様が審判をされても、まだ未完成な要素が潜んでいるということを表すものであった。つまり、ハムの行動は、サタンの再起を見せる行動だったのである。

このようにして、サタンは、ハムの行動の根拠をつかんだのである。神様は、その根拠を否定することができなかった。こうして、サタン側の繁殖が始まったのである。その原因を作ったハムが、サタン側の存在となったため、ノアは、ハムがカナンの祖先となって、神様の怨讐になることを予言したのである。(創世記9章24節から27節参照)


12-4 人々がサタンに協力したため言語を混乱させた

こうして、神様とサタンは、再び対立するようになった。サタン側は、子孫を繁殖したが、やはり、その子孫も神様の好まない行動をとるようになり、ノア以前のように、人々は神様から離れ、サタンの意を広めることに協力していたのである。神様は、人々をみ旨の中に置こうとされた。しかし、再び、サタンが人々を奪うようになっていったのである。従って、人々が、できるだけサタン側に属さないよう、神様は対策を立てなければならなかった。

人々は、神様の好まない方向へと流れていくばかりであった。それは、サタンが喜ぶことであった。従って、神様は、それを放置することができなかった。その時、人々の言語が一つであったため、全ての人々は意思が通じ、全体的に一つの方向へ動くようになっていた。これは、神様にとって、み旨を成就するための助けにはならなかった。このような言語は、むしろ、バベルの塔を立てるというサタンの意に協力する行動の助けとなった。神様が言葉を通じなくされたのは、言語がみ旨に反する行動の助けとなったからであり、それによって、全ての人々が、一つの方向へと流れていったからである。こうして、神様は、人々がサタンに協力するのを防ごうとされた。これが、人々の言語を混乱させた根本的な理由であった。もし、み旨の中で、人々がこのような塔を立てて、み旨が成就するのであれば、言語を混乱させる必要などなかったのである。

神様が言語を混乱させたことによって、サタンに全ての人々を奪われることはなかった。これは、幸いな事であった。しかし、これほど思うようにならない人々の罪を、誰が解決するのだろうか。このようにしても、人々は依然として、み旨から遠いところにいたのである。それに対し、精誠を尽くして、み旨を支える者たちは、とても少なかった。


12-5 神様は偶像商の息子であるアブラハムを選ばれた

神様は、サタンに奪われたノアの子孫を、サタンから取り戻さなければならなかった。そのために、神様は、サタンの愛する偶像商のテラから、その息子であるアブラハムを奪い取ったのである。神様がそのようにされたのは、ご自身の子孫を奪ったサタンに対して、同様の方法で報復するため、つまり、反対の経路で取り戻すためであった。アブラハムは、サタンの懐から抜け出した立場として、二度とサタンのもとに帰ることはなかった。アブラハムの行動は、多くの人々の手本となるものである。神様がアブラハムに要求されたことは、慣れ親しんだハランを離れることであった。そして、神様は、そこを離れたアブラハムを帰らせないようにするため、み旨を立てようとする他の地域へと導かれたのである。

アブラハムが、神様のみ旨に従ったため、天にとっては喜びの存在となり、サタンにとっては悲しみの存在となった。つまり、アブラハムは、分岐点からの進路を決める重要な存在であった。このようなアブラハムに未練を持っていたサタンは、アブラハムの後を付いて行ったのである。


12-6 アブラハムは神様から祝福されハランを出発した

アブラハムにとって、国を出て、親族と別れ、父の家を離れるのは、非常につらい事であった。このような情は、天の情とは反対であるため、み旨の路程を出発しようとするときに、その行動を躊躇させるのである。しかし、アブラハムは、このような情を乗り越えて、ハランを出発した。これは、褒めたたえるべき行動である。この行動は、サタンに対する復讐となり、また、み旨の路程を出発し、それを成就させるための基礎となった。

神様は、基本となるみ旨を、アブラハムの時から本格的に始めようとされた。そのため、アブラハムに、大家族を成すであろうと祝福されたのである。アブラハムは、神様のみ意を受け入れ、ハランを出発した。アブラハムが、このように出発したということは、神様の代わりに、み旨を成就させるための行動を始めたということである。しかし、サタンは、そのみ旨を成就させないようにするため、アブラハムを取り戻そうとしていた。


12-7 神様は改めてアブラハムに約束された

アブラハムの甥ロトが、エラムの王と、その連合の王たちに捕らえられてしまった。そのため、アブラハムは、王たちと対立したが、ロトを無事に取り戻すことができた。神様が、このように、アブラハムと王たちを対立させたのは、み旨を立てることのできる確固たる基盤を固めるためであった。

アブラハムが王たちに勝利した後、神様は、改めてアブラハムに約束された。それは、アブラハムに子孫ができ、その子孫が、神様のみ旨を立てることのできる民族となり、その民族によって、国家を建設するというものであった。この全ての約束の中に、世界を復帰しようとする目的が含まれていたのである。

それゆえ、創世記15章1節から11節には、次のように記されている。ただし、聖句中のアブラムは、後のアブラハムを表している。

主の言葉がまぼろしのうちにアブラムにのぞんだ。「アブラムよ恐れてはならない。わたしはあなたのたてである。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう。」アブラムは言った。「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか。」アブラムはまた言った。「あなたはわたしに子をたまわらないので、わたしの家に生まれたしもべが、あとつぎとなるでしょう。」この時、主の言葉が彼に臨んだ。「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです。」そして、主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」また、彼に言われた。「あなたの子孫はあのようになるでしょう。」アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。また主は彼に言われた。「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデアのウルから導き出した主です。」彼は言った。「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか。」主は彼に言われた。「三歳の雌牛めうしと、三歳のやぎと、三歳の雄羊おひつじと、山バトと、家バトのひなとをわたしの所に連れてきなさい。」彼はこれらをみな連れてきて、二つに裂き、裂いたものを互いに向かい合わせて置いた。ただし、鳥は裂かなかった。荒い鳥が死体の上に降りるとき、アブラムはこれを追い払った。

しかし、次の12節から13節には、次のように記されている。

日のるころ、アブラムが深い眠りにおそわれた時、大きな恐ろしい暗やみが彼に臨んだ。時に主はアブラムに言われた。「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを400年の間、悩ますでしょう。」

このように、神様は、アブラハムに憤慨されたのである。それは何故だろうか。


12-8 アブラハムの供え物は失敗した

アブラハムと神様との約束の供え物は、アブラハムの子孫を表すものであった。つまり、この供え物は、神様のみ意にかなう民族を立て、全人類を取り戻そうとされる神様の目的を、象徴的に表すものであった。このようにして、神様は、アブラハム一人によって、み旨を立てようとされたのであり、サタンは、そのみ旨が成就しないことを望みながら、アブラハムの行動の結果だけを見ていたのである。もし、アブラハムが、供え物をみ意の通りに捧げることができなければ、サタンに対して、アブラハムの子孫に侵入することを許さざるを得ないという重要な供え物だったのである。しかし、この供え物の上に、荒い鳥が降りたということは、アブラハムが供え物に失敗したということを意味している。その失敗とは、ハトを裂かなかったことである。

供え物を二つに裂くということは、神様が人々を神様側とサタン側に分けて摂理されるということを表していた。それゆえ、ハトを裂かなかったということは、アブラハムの子孫に対する摂理が不完全なものになるということを意味していた。こうして、サタンは、アブラハムの子孫に侵入することができるようになった。荒い鳥が供え物の上に降りたのは、それがサタンのものであるということを示すためであった。

では、三種の供え物は、何を表していたのか。これは、神様のみ旨が三段階であるということ、即ち、ハトは蘇生、羊は長成、牛は完成を表していた。

もし、この供え物が、み意の通りに捧げられていたならば、イスラエル民族のエジプトにおける400年間の苦役は無かったのである。この苦役は、アブラハムの供え物が、いかに重要であったのかを告げるものである。この400年の意義は、後で論じることにする。

こうして、供え物は、サタンに奪われてしまった。結局、アブラハムが、サタンの願いを果たす結果となった。つまり、アブラハムは、サタンに供え物を捧げてしまったため、その供え物をサタンが所有するという根拠を示した立場となり、供え物の目的が果たせなくなったのである。


12-9 イサクの燔祭は供え物の失敗によるもの

しかし、実体の子孫は、まだ、サタンに奪われていなかった。それゆえ、神様は、その子孫を奪われないように、何としても、その子孫にサタンが侵入するのを防がなければならなかった。そのため、神様は、その子孫の始まりであるアブラハムの息子イサクを守ろうとされたが、サタンは、既にイサクを取ることのできる供え物を所有していたため、その供え物の実体であるイサクを求めていたのである。

神様は、アブラハムが再び従順になれば、その子孫に、み旨を継承させようとされた。これが、アブラハムに対して、イサクを供え物として捧げよと言われた根本的な意義である。このような命令に従うことは、容易なことではなかったが、アブラハムは、供え物の失敗によって、自分の子孫が400年間苦しむことを知っていたため、今度失敗すれば、言葉では言い表すことができないほどの大きな問題が起きると思い、全面的に神様の命令に従ったのである。こうして、アブラハムが、み意の通りに、供え物として息子を捧げるという確固たる立場に立ったため、サタンはイサクから退いていった。このように、イサクの燔祭はんさいは、アブラハムの供え物の失敗によるものだったのである。

今の人々は、イサクの燔祭に、このような意味があったことを、まだ知らずにいる。しかし、これに関することは、創世記22章9節から12節に、次のように記されているのである。

彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使つかいが天から彼を呼んで言った。「アブラハムよ、アブラハムよ。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」み使つかいが言った。「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った。」

この聖句の最後にある「今知った」という言葉は、前回の供え物の失敗を告げていると同時に、み旨がアブラハムの子孫に継承されることを告げているのである。

神様が言われた通り、供え物の失敗によって、アブラハムの子孫は、400年の間、怨讐のもとで苦役をした。つまり、イスラエル民族のエジプトにおける400年間の苦役は、必然的な過程だったのである。それを乗り越えて、次の路程に入ることができた。


12-10 三種の供え物の意味

前述のように、原理的な過程には、蘇生、長成、完成の三段階があり、神様は、それを表すために、三種の供え物として、ハト、羊、牛を求められた。その内のハトは、蘇生段階を表していた。しかし、その蘇生段階において、み旨に従順に従うことができなければ、サタンを分立することによって、長成、完成へと展開するということを、神様は示されたのである。

三種の供え物には、一度でみ旨を成就させようとされた神様のみ意があった。しかし、結果的に、蘇生段階は、神様の責任分担として、次の長成段階のために、基礎を固める期間となった。その長成段階では、イエスが来られ、エバを取り戻さなければならないのであり、その次の完成段階では、全人類がイエスを中心として一つになり、神様の全ての創造目的を果たさなければならない。

ところで、牛は完成を意味するが、それは再臨を意味するものとなった。この再臨という問題が生じたのは、人の不信仰と不従順によって、イエスが十字架にかけられたため、再臨して、長成と完成を共に成さなければならないからである。しかし、何故、雌牛めうしだったのか。それは、み旨が完成に至るためには、エバという存在が問題の中心となるため、そのエバを雌牛として表していたのである。士師記14章18節の最後に、「わたしの若い雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかった」と記されている。このように、サムソンは、ペリシテ人に対して、妻を雌牛と表していた。このような例からも、雌牛はエバを表していたということが分かる。


12-11 イサクに双子の息子エサウとヤコブが生まれた理由

サタンは、イサクを通しては、自分の思いを果たすことができなくなった。しかし、アブラハムの供え物を全て自分のものにしたことは事実であるため、イサクの子孫を取ることができるのではないかと考えていた。それゆえ、サタンは、以前と同じように、神様と対立する立場を取るようになったのである。

イサクに双子の息子、エサウとヤコブが生まれた。この双子は、何を意味するのか。アブラハムの失敗によって、供え物をサタンに取られたため、実体の息子であるイサクが問題となった。結局、イサクはサタンに取られなかったが、イサクの息子をサタンに譲るという結果になったのである。この双子の息子は、サタン側の存在と神様側の存在が、一つの胎中にいたことを表している。エサウとヤコブが、胎中にいた時から争っていたのは、根本的に背反する存在だったからである。それゆえ、神様は、リベカに次のように言われた。「二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう。」(創世記25章23節)この双子の息子のうち、兄のエサウはサタン側であり、弟のヤコブは神様側であった。つまり、エサウは、アブラハムが供え物に失敗した結果であり、弟のヤコブは、イサクからみ旨を継承し、供え物の失敗を取り戻すべき立場であった。神様がヤコブを通してみ旨を立てようとされたのは、原理通りにサタン側から奪うことによって、み旨が成就するようになっていたからである。これが、エサウの祝福をヤコブが奪った根本的な意義である。

もし、供え物の失敗が無かったならば、イサクには、神様が好まれないエサウのような息子は存在しなかった。しかし、神様が、そのような息子を存在させたのは、サタンがアブラハムの子孫に未練を残さないようにするためであった。

また、ヤコブが、母リベカの協力を得て、エサウから嗣業しぎょうを奪ったのは、将来、イエスが来られ、サタンの血を受け継いだ人々を、全て取り戻すということを予告したのである。

神様がアブラハムに約束されたことは、神様の目的を表していた。そのような意味で、イサクが、分岐となる存在だったのであり、ヤコブが、サタン側のエサウから嗣業を奪ったのである。


12-12 エジプトからカナンまでの復帰路程は神様の責任分担

ヤコブの息子たちは、イスラエル12支族の祖となった。つまり、み旨成就のための民族は、ヤコブの子孫なのである。では何故、イサクからではなかったのか。それは、前述したことからも分かるように、イサクがアダムと同様に、神様にもサタンにも対応することのできる立場だったからである。それゆえ、イサクではなく、ヤコブの時に、エジプトに向かったのであり、それが、み旨成就への出発となったのである。このような理由で、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼ばれるようになった。今まで、信徒たちは、これを良い意味で捉えていたが、それは大きな誤解である。以上のように、ヤコブが神様側として、サタンから分立されたため、神様の責任分担として、復帰の摂理が始まったのである。

まず、神様は、基礎を作られた。それが、供え物で示された蘇生の過程、即ち、エジプトからカナンまでの復帰路程であった。この路程が、長成の使命分担責任者であるイエスのための手本とならなければ、神様が蘇生の責任を果たしたとは言えなかった。このように、イスラエル民族がエジプトでの苦役を経て、ソロモンが王になるまでの路程は、将来、イエスが果たさなければならない事を予告していたのである。つまり、神様が、イスラエル民族をエジプトからカナン福地に導かれたように、イエスは、人々を理想の福地へと導いていかなければならなかったのである。このようなイエスの使命を表すように、蘇生の過程が展開されたということを知らなければならない。


12-13 神様がモーセを立てられた理由

神様は、イスラエル民族をエジプトから導き出すために、ご自身の代わりとして、モーセを立てられた。では何故、モーセが選ばれたのか。怨讐のエジプト人が、イスラエル民族を極度に虐待していたため、苦役中のイスラエル人が、そのエジプト人と戦っていた。それをモーセが見て、そのエジプト人を殺したのである。モーセは、本来、エジプト宮中で育ったが、エジプト人を怨讐のように見ていた。それは、モーセに、自分がイスラエルの子孫であるという確固たる思いがあったからである。それゆえ、モーセは、神様に愛されていた。つまり、エジプト宮中で育ったが、エジプト人ではなく、天の民族そのものだったのである。

モーセは、エジプト人の一番嫌いなイスラエル民族ではあったが、エジプト宮中では愛されて育った。しかし、モーセは、エジプト宮中を出てから、二度とエジプトとは結託しなかった。それは、エジプト人に対して、憎悪の念を抱いていたからである。モーセが、このような存在であったため、神様に選ばれたのである。


12-14 モーセに奇跡のしるしとアロンを与えられた理由

神様は、モーセに、エジプト王のパロのところに行くよう命じられた。それは、パロに、アブラハム、イサク、ヤコブの神様を知らせ、イスラエル民族を解放するように伝えるためである。

出エジプト記4章を見れば、その時、モーセは、エジプト人に自分を信じさせることのできる証拠となるものを神様に求めていた。それゆえ、神様は、杖がヘビになるという最初の奇跡を見せられたのである。

続いて、神様が、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われたため、モーセが手を懐に入れると、その手が、らい病にかかっていた。そして、「手を懐にもどしなさい」と言われたため、その手を再び懐に入れ、出して見ると、その手は元通りに回復していた。

さらに、神様は言われた。「彼らがもしこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声に聞き従わないならば、あなたはナイル川の水を取って、かわいた地に注ぎなさい。あなたがナイル川から取った水は、かわいた地で血となるであろう。」

次に、モーセは、「わたしは口も重く、舌も重いのです」と言って、神様に言葉を求めた。神様は、アロンを同行させるようにし、「彼はあなたに代わって民に語るであろう」と言われた。

このように、モーセの要求に対して、神様が応えられた内容は、将来、イエスが果たさなければならない全ての目的を象徴するものであった。まず、最初の杖は、保護者を表していた。つまり、その杖は、み旨を果たすべき者を保護し、行くべき道を案内し、また、適切でない者を打つものである。これは、イエスが、我々の生命の保護者になるということを意味していた。また、その杖をヘビに変えられたのは、将来、イエスが、天のヘビのように現れ、ヘビに象徴されたサタンの手中からエバを取り戻し、勝利するということを予告されたのである。

次に、モーセが手を懐に入れると、らい病にかかったというのは、サタンに誘惑されたエバが、アダムを堕落に導いたということである。そして、再び手を懐に入れると回復したというのは、イエスが来られて、エバを取り戻せば、堕落した死の状態から蘇生するということである。つまり、最初の懐は死を表していたが、次の懐は生命と永生を表していた。

その次に、川の水が血になったというのは、イエスが来られたならば、死の状態にあった存在に、生命が注入され始めるということを表していた。

また、神様が、言葉を求めたモーセに、言葉に優れたアロンを与えられたのは、み言で創造されたものがサタンに奪われたため、イエスが来られたならば、それらをサタンから取り戻し、み言に相応する理想的な実体とすることで、創造目的が成就するということを表していた。


12-15 モーセの妻子による割礼の意義

神様は、モーセが求めたものを全て与えられた。そして、モーセに言われた。「エジプトに帰って行きなさい。あなたの命を求めた人々はみな死んだ。」(出エジプト記4章19節)こうして、モーセは、妻子を連れて、エジプトに向かったのである。

また、神様は、次のことをパロに伝えるようモーセに言われた。「主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう。」(出エジプト記4章22節から23節)

ところが、途中の宿所で、神様が現れ、モーセを殺そうとされた。その時、モーセの妻チッポラは、息子の陽皮を切り取り、それをモーセの足につけて言った。「あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です。」(出エジプト記4章25節)こうして、モーセは死を免れた。それは、割礼のゆえである。もし、この時、チッポラと息子が一つになれず、割礼を行うことができなければ、モーセは死んでいたのである。

つまり、リベカとヤコブが一つになって、み旨が成就したように、チッポラと息子が一つになったため、割礼を行うことができたのであり、それによってモーセが生かされ、イスラエル民族が神様の長子の立場に立つことができ、み旨を成就することができるようになったのである。それは、将来、イスラエル民族によって、カナンを復帰することができるようになったということである。このように、モーセは、イスラエル民族の将来を左右する存在であった。

こうして、神様は、イエスも母親と一つになれば、み旨を成就することができるということを示されたのである。これは、もし母親と一つになることができなければ、み旨を成就することができず、イエスは十字架の道を行かざるを得ないということでもあった。このように、イエスは、生死をかけた重要な責任を果たさなければならなかったのである。

しかし、結局、イエスは母親と一つになることができなかった。それは、母親がみ意に従うことができなかったからである。そのため、イエスは、ガリラヤのカナで奇跡を見せている時に、ご自身の母親に対して、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネによる福音書2章4節)と言われたのである。このように言われたのは、母親がイエスの第一次のみ旨に失敗をもたらしたからである。つまり、イエスは、十字架の道を避けられなくなった。これは、モーセが神様のみ旨を成就できず、使命を果たすことができなかった事と同様である。このような路程に隠された原理的事実を、誰が知り得るだろうか。

ここで、割礼について述べることにする。割礼という風習が生じたのは、エバがサタンの血を受け入れ、アダムまでが堕落したからである。もし、アダムが、エバを主管していたならば、堕落は防げたはずであったが、逆に、エバに主管されたため、堕落したのである。従って、堕落の責任は、エバよりもアダムにあった。こうして、エバに主管されたアダムは、神様の前に立つことのできない立場となった。このように、男性の陽部が、サタンの血を受け入れ、堕落に至ったため、割礼によって、その血を抜いたということを示したのである。

割礼は、アブラハムと神様との永遠の契約であった。(創世記17章9節から14節参照)そのため、アブラハムの子孫は、割礼をしなければならなかった。そうしてこそ、神様に属することができ、また、主管性を復帰した男性としての資格が与えられたのである。

割礼には、心の割礼(申命記10章16節参照)があり、肉身の割礼(創世記17章10節参照)があり、万物の割礼(レビ記19章23節参照)がある。また、割礼には、以下のような重要な意味がある。
(1) 死の血を抜くということ
(2) 主管性を取り戻すということ
(3) み旨の道を行くという約束をすること
人々は、このような割礼の意味を、今まで知らなかったのであり、また、それを知ってはならなかったのである。


12-16 モーセの路程はイエスの手本

イスラエル民族が、み旨を全て成就できるかどうかは、モーセの行動にかかっていた。また、モーセの路程は、イエスの手本となるべきものであった。それは、原理によって、知ることができる。つまり、神様の責任分担摂理は、イエスの路程に相対するように進められたのである。

モーセに同行したアロンは、イスラエルの祭司となった。また、アロンは、モーセの補佐役でもあった。こうして、神様は、民族の贖罪に対して、アロンが責任を果たすようにされたのである。これは、エバの聖霊が、イエスに従い、人々の贖罪に対して、責任を果たさなければならないということを表していた。つまり、モーセとアロンが一つになっていたように、イエスと聖霊も一つにならなければならないということを表していたのである。

また、神様がモーセにアロンを与えられたのは、モーセが単に協力者を求めたのではなく、み言の代弁者を求めたからである。このように、神様がモーセにみ言の代弁者を与えられたということは、神様のみ言に背いたのはエバであったが、イエスがエバの聖霊を取り戻して、み言を成就させなければならないということを表していた。このように、アロンは、エバの役割を果たさなければならなかった。そのため、アロンは、モーセの補佐役として、み旨に協力したのである。これは、聖霊がイエスに協力することによって、み旨が成就されるということを表していた。


12-17 摂理における3日路程の意味

モーセは、アロンと共に、パロのところに行き、イスラエル民族を解放するよう要求した。しかし、パロは、モーセの要求を受け入れなかった。それに対して、神様は、むしろパロの心をかたくなにされ、一層イスラエル民族を憎むようにされた。モーセとアロンは、さらに言った。「どうか、わたしたちを3日の道のりほど荒野に行かせ、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。」(出エジプト記5章3節)

イスラエル民族が、み旨の路程を出発できるかどうかは、この3日路程にかかっていた。つまり、この3日間をパロが承諾しなければ、イスラエル民族は、み旨の路程を出発することさえできないという問題だったのである。

モーセのときに、このような3日路程があったように、イエスのときにも、3日路程がなければならなかった。そのためには、イエスにも、アロンのような存在が必要であった。

イエスは、荒野の試練を通して、サタンに勝利し、モーセの立場に立つことのできる条件を得たが、アロンのような、エバの役割を果たすことのできる存在を得ることができなかった。そのため、3日路程が思い通りにはならず、それが原因となって、十字架の死から3日間が始まったのである。

もし、イエスと母親が一つになり、アロンのような存在がイエスを補佐し、人々がみ旨に従っていたならば、イエスの十字架路程は無くなり、サタンに対する対策を積極的に立てることができたのである。イエスには、その対策を、どのようにしてでも立てなければならない責任があった。そのため、死んでも、3日間を送らなければならなかったのである。


12-18 堕落の根本的な責任は神様にある

創世記6章6節に記されているように、神様は人を創造されたことを後悔された。また、士師記2章18節には、神様が人を哀れに思われたという聖句がある。このように、神様が嘆かれたのは、人が神様ご自身の体となっているからである。つまり、人を失うということは、神様ご自身の体を失うも同然であった。それゆえ、神様は、洪水審判の後に嘆かれ、二度とこのような審判をしないと宣布されたのである。

しかし、人を堕落に導いたサタンは、神様が創造された存在から生まれたものである。従って、堕落の根本的な責任は、創造主である神様にある。その次は、堕落を防ぐことのできなかったアダムに責任があり、その次は、サタンに誘惑されたエバに責任がある。

最高責任者である神様は、ノアを立て、根本から始められた。それは、アダムとエバを復帰するためである。その基礎を固めるために、アブラハムとモーセを通して、摂理を展開されたのである。


12-19 神様とイエスで責任を分担した

前述のように、この摂理は、第二アダムであるイエスの行くべき路程を示すものであった。従って、イエスは、神様が教示されたこの路程を手本として、サタンに勝利しなければならなかったのである。これに関連して、ヨハネによる福音書5章19節から20節には、次のように記されている。

さて、イエスは彼らに答えて言われた。「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。」

神様の責任分担摂理の場合と同様に、イエスも、サタンを完全に分立してこそ、路程を出発することができた。そして、神様が、ご自身の責任分担としてモーセを立て、イスラエル民族を怨讐の懐から連れ出したように、イエスも、全ての人々をサタンから取り戻さなければならなかった。人の堕落によって、このように、神様とイエスが分担して責任を果たさざるを得なくなったということは、その事情を知る我々としては、心苦しいことである。

以上のような原理(堕落原理と復帰原理)の全てが、サタンによって生じたということが理解できれば、そのサタンを総攻撃して、早急に人々を復帰しなければならないということが分かるのである。

我々は、既に、人が堕落したという事実を知ったのであり、また、神様がどのような方であるのかを知ったのである。これから、み旨の道を出発するのであるが、我々は何をもって神様に報いるのか。それは、既に分かっているように、神様に仕えるということである。


12-20 イスラエル民族は神様が父であることを知らなかった

神様が子を失ったのは、6千年前である。神様は、その失った子を取り戻すために、6千年間休むことができなかった。この事実を広く宣べ伝える者は、この世のどこにいるだろうか。神様が子を探し求めておられるその姿を知る者は、果たして何人いるだろうか。子が父である神様を知らないという現実を、神様は無念に思いながら、長く堪えてこられたのである。このような神様の心情に同情する孝子が、世界のどこにいるだろうか。

人々に、その心情を知らしめるため、儒教を通して、孝子の道、忠臣の道、師弟の道を、この世に伝えられたのであるが、今、人々が、それ自体をよく知らずにいるということは、実に嘆かわしいことである。その道を知る者は、直接、父と向かい合い、孝子となることができ、たとえ父と距離を置いても、父を王として、或いは師として、教示を受けながら、それを理解することで、み旨を立てることができるのである。

イスラエル民族は、このような儒教の教えを知らなかったため、その教えのように、神様に仕えることができなかった。神様は、その教えを、最初の理想として教示しようとされたが、人が堕落したために、教示することができなかったのである。

このように、イスラエル民族は、神様が父であることを知らず、また、神様を王としても、師としても、知ることができなかった。このような民族が、怨讐のもとで苦役を強いられていたことに対し、神様は、どれほど痛ましく思われていただろうか。それゆえ、神様は、その民族を取り戻して、ご自身の子女とするために、モーセを立て、パロと対立するようにされたのである。


12-21 神様はモーセを通してパロを屈服させた

モーセは、神様のみ言に従い、怨讐サタンの代弁人であるパロに向かっていった。それは、歴史的にとても大きな希望であった。モーセがパロの前で、三大奇跡と十災禍じっさいかを見せることによって、神様はパロを完全に屈服させようとされた。そして、エジプトにひょうを降らせた時、パロは、自分が罪を犯したことを認めた。(出エジプト記9章27節参照)しかし、パロは、雹がやむのを見て、また心をかたくなにし、イスラエル民族を解放しなかった。このように、神様がパロの心をかたくなにされた事には、どのような目的があったのか。
(1) パロ(サタン)がイスラエル民族のことを二度と考えないようにするため
(2) パロ(サタン)に力が無いことを認めさせ、神様に従わなければならないということを自覚させるため
(3) 怨讐の全てのものに害を与えるため
(4) 神様に反する者は滅びるということを自覚させるため
(5) 長子の血を受け継いだ者を討って、怨讐の血を滅ぼすため

では、神様は、パロの心をかたくなにすることによって、イスラエル民族に、何を悟らせようとされたのか。
(1) パロ(サタン)に対して憎悪の念を抱くようにするため
(2) パロ側が神様の怨讐であることを知らしめるため
(3) 我々の側には、絶大な能力を持つ神様が共に居られるということを教えるため
(4) イスラエル民族のエジプトに対する未練を完全に断ち切るため
(5) イスラエル民族と情の通じるエジプト人が、一人もいなくなるようにするため
(6) 神様がパロを憎むほど、イスラエル民族の立場が高くなるようにするため
(7) 神様のみ旨に対して、一貫した行動をとるようにするため
(8) 神様はどのような難関でも打開するということを見せるため
(9) 神様に対立し反対する者は、誰でも永遠の怨讐になるということを教えるため
(10) その後の路程における勝利的要素を育てるため
(11) 性急にならず、永遠に信じ、従順に従うようにするため
神様は、以上のような事をイスラエル民族に悟らせ、彼らをより連帯させたのである。

パロとの決戦が終局を迎えるところで、神様がエジプトの長子を討ったのは、何を意味していたのか。長子というのは、サタンの血を先に受け継いだ立場である。そのため、サタン側であるエジプトの長子は、皆討たれたのである。一方、イスラエル民族の長子を、羊の血によって代贖だいしょくしたのは、この災いを避けるためであった。これには、どのような意味があったのか。イエスは、ヘビの血を受け継いだ民族を討つために来られた。しかし、イエスに属する者は、代わりの血、即ち、イエスの生命を受けることによって、生きることができるということを示されたのである。

最終的に、モーセは、パロを屈服させ、イスラエル民族は、希望のカナン福地へと出発することになった。この路程は、今日の信仰生活の路程を表すものであるということを知らなければならない。


12-22 紅海の奇跡

イスラエル民族は、エジプト人の財物を奪い取り、それを持って、モーセを中心として出発した。こうして、神様と共に生活する路程に入っていった。

イスラエル民族を皆送り出してしまったパロは、あまりにも悔しく思い、戦車に乗って、イスラエル民族の後を追っていった。イスラエル民族は、後ろからエジプトの戦車が追ってくるのを見て騒ぎ出した。前方は紅海でさえぎられていたのである。なす術もなく死んでしまうのかと、皆が騒いでいた。その時、神様はモーセに言われた。「あなたは杖を上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。」(出エジプト記14章16節)モーセがそのようにすると、紅海が分かれ、陸地のように渡ることができた。これは、人々が、サタンの主管下から、イエスの懐に入ろうとするとき、サタンはパロのように、人々を追撃してくるということを表している。しかし、イエスに従っていけば、モーセが杖で紅海を分けたように、イエスがこの世の苦海を分けられ、人々は生きることができるのである。

イスラエル民族が紅海を渡った後、神様は、マナとウズラと水を与えられ、彼らを空腹から救われた。これは、イエスが来られ、我々に生命蘇生要素を無条件に与えてくださるということを示されたのである。


12-23 アマレクとの戦い

路程の途中で、アマレク人が現れ、彼らから攻撃を受けた時、モーセは、ヨシュアに、アマレク人と戦うように命じた。そして、モーセは、神様の杖を持ち、丘の頂に立った。そこで、モーセが手を上げれば、イスラエル民族が優勢となり、手を下ろせば、アマレク人が優勢となった。そのため、アロンとホルは、石を持ってきて、モーセを座らせ、日没までモーセの手を二人で両側から支えた。こうして、イスラエル民族は、アマレク人に勝ったのである。その時、神様はモーセに言われた。「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしはあめが下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう。」モーセは祭壇を築いて、その名を「主はわが旗」と呼んだ。そして、モーセは言った。「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる。」このように、神様は、イスラエル民族を無条件に保護されたのである。(出エジプト記17章8節から16節参照)

この事は、我々がイエスから無条件に愛されているということを表している。イエスの生命を受けた者を、怨讐サタンと対立させ、再び怨讐と一つにならないようにするのである。それゆえ、信仰の路程は、いつも平坦ではない。一人で生きることができるように、保護される時期もあれば、怨讐に対して、勝利しなければならない時期もある。

では、モーセが手を上げていることには、どのような意味があったのか。それは、神様が共に居られるということを意味していた。つまり、アロンとホルは、神様が共に居られるように協力したのである。それゆえ、勝利するためには、モーセの手を支えたアロンとホルのような存在が必要である。

ヨシュアは、中心的な信仰者を表していたのであり、神様と共にあれば、アマレク人など問題ではないことを見せたのである。それは、我々のとるべき姿勢を示している。

モーセと杖は、神様を表し、石は、神様の宝座を表していた。また、アロンとホルは、イエスとエバ(聖霊)を表していた。つまり、後にイエスに仕え、聖霊を迎え、神様を尊ぶ者になってこそ、勝利するということを見せたのである。

そして、モーセが、「主は世々アマレクと戦われる」と言ったのは、アロンとホルが石を積み、モーセを座らせたからである。これは、アロンとホルが信仰を立てなければならない立場でありながら、難しいという個人的な考えを持っていては、み旨が成就する時まで、サタンと敵対し続けるということである。つまり、聖徒は、サタンと向き合うことになるため、神様に属する立場を確固たるものにしなければならず、また、アマレク人のような怨讐と最後まで戦って、勝利しなければならない。このように、聖徒とサタンを戦わせる理由は、聖徒がサタンを主管することのできる資格者とならなければならないからである。


12-24 神様が望まれるのは祭司の国と聖なる民

イスラエル民族は、シナイの荒野に入り、シナイ山の前で宿営することになった。そこで、モーセが山に登ると、神様は次の事をイスラエル民族に告げるように言われた。

「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう。」(出エジプト記19章5節から6節)

これは、イスラエル民族が、み旨に従うならば、イエスが来られて大祭司長となり、全世界を統治されるということを、神様が約束されたのである。これが、神様の理想であった。

サタンは、神様の愛を受けていたイスラエル民族の後を追って、荒野にまで付いて行き、不信仰な者、不従順な者を探し出そうとしていたのである。そのような事を知らないイスラエル民族は、不信仰と不従順がもたらす結果を、切実には捉えていなかった。


12-25 石板と幕屋の意味

出エジプト記24章15節から18節には、次のように記されている。

こうしてモーセは山に登ったが、雲は山をおおっていた。主の栄光がシナイざんの上にとどまり、雲は6日のあいだ、山をおおっていたが、7日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は山の頂で、燃える火のようにイスラエルの人々の目に見えたが、モーセは雲の中にはいって、山に登った。そしてモーセは40日40夜、山にいた。

そこで、神様が、幕屋(移動式の神殿)の作り方について語り終えられた時、モーセに十戒じっかいの石板を授けられたのである。この期間は、イスラエル民族にとって、最も重要な期間でありながら、最も退屈な期間でもあったが、モーセが山から下りてくれば、幕屋は、すぐに作り始められるはずであった。

神様がモーセに教示された幕屋は、次のようなものであった。幕屋には、至聖所しせいじょと聖所がある。即ち、至聖所の手前に聖所があり、それらは区別されている。至聖所には契約の箱があり、その上には二つのケルビムがあり、その間には贖罪所しょくざいしょがある。

この幕屋の構造は、イエスを表している。つまり、至聖所は天の世界を象徴するもので、イエスの中に神様が居られるということを表し、聖所は地上世界を象徴するもので、イエスの肉身を表している。これは、イエスご自身が、完成した天と地を表す存在でなければならないということを示しているのである。

では、至聖所にある契約の箱、その上にある二つのケルビム、その間にある贖罪所は、それぞれ何を表していたのか。契約の箱には、十戒の刻まれた石板が収められていた。それは、人の堕落によって失われたみ言である。つまり、み言の理想実体である神様の体、即ち、アダムとエバが堕落したということを表していたと同時に、二人の代わりにイエスと聖霊が来られるということを表していたのである。アダムとエバが堕落した後、神様は二人をエデンの園から追放され、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。しかし、イエスが来られたことによって、命の木の道が取り戻され、命の木の実を得ることができるようになったのである。神様がケルビムの間、即ち、贖罪所に顕現されるというのは、贖罪したところに神様が居られ、ケルビムの間を通ることができるようにされるということであった。神様は、イエスと聖霊を通して、人の罪を贖われた後、人の心に居られようとされた。イエスは、この基盤を固めるために来られたのであり、聖所のようなイエスに抱かれるならば、その人も神様に仕えることができるようにされたのである。

ヨハネによる福音書2章21節には、「イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである」と記されている。このように、幕屋(移動式の神殿)は、イエスを象徴していたため、イエスが来られてからは、幕屋が不必要になった。つまり、旧約時代の幕屋の理想が完成したのである。イエスが、ご自身を神殿に例えられた意義はここにある。

イエスによって、ケルビムでさえぎられていた命の木の道が開かれたため、イエスを信じる者たちが、アマレクのような怨讐に勝利すれば、イエスと一つになり、命の木の実を得ることによって、第二の神殿(イエス)になることができるのである。これが、神様が人々に望まれている最高の目的である。この目的のために、イスラエル民族がアマレクに勝利した後で、幕屋が作られたということを、よく知らなければならない。つまり、誰もが、神様と直接向かい合い、一体になれるという基本原理を立てようとされたのである。それゆえ、人は、どれ程貴く、希望的な存在であろうか。

このような幕屋を作るために、モーセは山の頂で40日40夜を過ごしたのであり、そこから、神様は、人々と父子の関係を取り戻すためのみ旨を始められたのである。しかし、そのような中で、イスラエル民族は、アロンに金の子牛、即ち、偶像を作らせ、それを拝んでいた。つまり、この時、イスラエル民族は、サタン側の基盤を立てる行動をとっていたのである。神様は、それに激怒され、モーセに言われた。「急いでくだりなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。」さらにモーセに言われた。「わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう。」(出エジプト記32章7節から10節参照)モーセは、神様をなだめて山を下ったが、イスラエル民族が偶像を自分たちの神として拝み、歌い踊っているのを見て、今度はモーセ自身が激怒し、手に持っていた2枚の石板を投げて壊してしまった。この行動は、サタンにとっては喜ばしいことであったが、神様にとっては非常に重大なことであった。何故なら、その2枚の石板は、神様の体、即ち、アダムとエバを表していたからである。

モーセは、神様が言われた通り、2枚の石板を作り、また山に登った。そして、神様と共に過ごしながら、40日40夜断食し、神様のみ言を石板に記録した。すると、モーセの顔は、光を放つようになった。(出エジプト記34章参照)

こうして、モーセは、再びみ意に従うことになったのである。しかし、サタンは、イスラエル民族に不信仰が見られたら、再び侵入しようと、その機会をうかがっていた。イスラエル民族は、そのような事を知らずにいたのである。


12-26 メリバの水の出来事

イスラエル民族は、カデシに留まった。そこで、飲む水がないと言って、モーセに反抗し、エジプトから出てきたことを嘆いていた。その後の出来事は、民数記20章6節から13節に、次のように記されている。

そこでモーセとアロンは会衆の前を去り、会見の幕屋の入口へ行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れ、主はモーセに言われた。「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい。」モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った。「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか。」モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。そのとき主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう。」これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。

このように、メリバの水の出来事は、神様を信じることができなかったために起こったのである。この事によって、モーセとアロンも、カナンの地に入ることができなかった。

神様は、岩を一度打つことは許されたが、二度打つことは許されなかった。では、岩を打つことには、どのような意味があったのか。岩は、神様の体を表していた。コリント人への第一の手紙10章4節には、「この岩はキリストにほかならない」と記されている。これを見ても、岩は神様の体であり、キリストを意味していたことが分かる。ところで、岩を一度打つことを許されたのは、アダムが堕落したことを表すためであった。しかし、意外にも、二度打ってしまった。それは、サタンが、第二アダムであるイエスまでも打つということを表す行動となった。このように、さらにもう一度、岩を打ったのは、モーセが行なったことではあるが、サタンが打ったことと同じ結果になってしまったのである。

つまり、初めの2枚の石板は、アダムとエバを表し、後の2枚の石板は、イエスと聖霊を表していたため、岩を二度打つという行動は、後の石板を壊すという行動と同様であった。また、岩は石板のもとであるため、より根本的な神様の体を表していた。それゆえ、さらにもう一度打ったということは、後に来られるイエスを打つ行動となっただけではなく、根本である神様をも打つ行動となり、これが、サタンが勝利することのできる基盤となったのである。このように、モーセとイスラエル民族が、不信仰と不従順によって、神様に対して罪を犯してしまったため、サタンは、イスラエル民族に侵入することのできる基盤を固め、イエスを十字架にかけることができるようになったのである。


12-27 青銅のヘビ

こうして、サタンは、イスラエル民族に侵入し始めたのである。イスラエル民族がヘビに噛まれたことは、それを表していた。モーセは、青銅のヘビを作って旗ざおの上につけ、それを仰いで見る者は、ヘビに噛まれても治るようにした。このように、イスラエル民族にサタンが侵入したのは、不信仰と不従順の結果であった。それゆえ、イエスは、自分の話を受け入れない者に対して、次のように言われたのである。

「ちょうどモーセが荒野あらのでヘビを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章14節から15節)

カナンの地は、信じて従順に従う者だけが、受け継ぐことができたのである。その時、不信仰、不従順であった者たちは、サタン側となり、カナンの地に入ることができず、皆、荒野で死んでしまった。このように、不信仰な者、不従順な者は、理想の天国には行けないのである。乳と蜜が流れているというカナンの地は、我々が理想とする天国、即ち、幸福と愛の国を表している。


12-28 モーセの代わりにヨシュアがみ旨を立てた

結局、モーセは、岩を二度打って失敗したため、カナンに入ることができずに死んでしまった。それは、イエスも、同様の結果になるということを表していたのである。イスラエル民族がカナンの地に入り、その地を受け継ぐためには、カナンの諸民族を制圧しなければならなかったが、そのみ旨を、モーセの代わりに、ヨシュアが立てることになった。ヨシュアは、神様から見れば、イエスを象徴していたのであり、また、モーセから見れば、第二のモーセとして、み旨を成就した者でもあった。


12-29 イスラエルの三大王によって摂理の全てが表されていた

以上のことは、神様の責任分担摂理であり、イエスが来られてから勝利するための基礎であった。つまり、イエスがこの世に来られても、天国を建設する中においては、怨讐との戦いがあり、それに勝利しなければならなかった。そのため、ヨシュア以後に士師たちを立て、摂理をされたのである。士師の後には、王を立てられた。王によって、摂理を進めることができるからである。このように、イエスが来られる前から、イエスを王にするための基礎工作があったのである。

イスラエル王国の最初の王は、サウルであった。しかし、サウルは、アダムを表していたため、アダムが失敗したように、サウルも失敗したのである。次の王であるダビデは、神様の権勢を表し、その子ソロモンは、栄光の王として神殿を完成させた。これは、イエスが来られて、み旨を成就し、権勢と栄光をもって、本来のみ意である神殿の理想が展開されることを示されたのである。

従って、イエスには、この目的を果たさなければならない使命があった。つまり、イエスは、栄光の王として現れることのできる基盤の上で、権勢を表す王としてサタンに勝利し、全ての人々を神様の子女として、また、神様の民族として、復帰しなければならなかった。しかし、神様の責任分担摂理にサタンが侵入し、イスラエル民族がイエスを信じず、従順ではなかったため、イエスは十字架へと向かうことになったのである。このように、イエスは、天では栄光の存在であったが、地では目的を完全には果たすことができなかったため、再臨するということが、聖書で述べられているのである。(ヨハネの黙示録22章、使徒行伝1章11節参照)

それでも、イエスは、霊的な基盤を世界に拡大して、堕落した人々を取り戻し、本来の位置にまで霊的に引き上げなければならなかった。そのため、聖霊と一つになって、その使命を果たされ、再臨の時には、実体をもって、目的を完全に果たすことができるよう、基盤を立てられたのである。つまり、先に霊として目的を果たしたのであるが、次は肉身として目的を果たさなければならない。従って、イエスは、肉身をもって再臨されるのである。こうして、サタンから権勢を取り戻し、栄光を享受してこそ、目的を果たすことができる。これを世界的に成就させることが、神様のみ旨であり、理想なのである。

それゆえ、イエスを中心とする国家が、世界で権勢を振るい、サタン側に勝利すれば、栄光の王である再臨主が、人として現れるのである。ところで、既に、イエスを中心とする国家は、サタン側に対して、世界的な大勝利を収めている。それが、世界大戦である。つまり、再臨主は、遠くない将来に現れる。そして、イエスの目的を完全に果たすのである。

このように、サウル王は堕落したアダム、ダビデ王はイエス、ソロモン王は再臨主を表す存在となった。つまり、旧約のイスラエルの三大王によって、神様の摂理が全て表されていたのである。


12-30 神殿のみ旨の目的はイエス

神様の責任分担摂理は、第一段階であった。これによって、神様が顕現されることのできる神殿を建設するという目的は達成された。しかし、イスラエル民族が、神殿と一つになる必要があった。それは、神殿のきまり、即ち、神様が要求される全てのきまりを、イスラエル民族の生活の基本、財産権の基本、国家を成すための基本、理想を完成させるための基本とするためであった。ソロモン王以降、イスラエル民族には、このような重要な使命があった。旧約時代に、その使命が果たされてこそ、イスラエル民族は、神殿として来られるイエスと一つになり、み言を遂行しながら、各自が第二の神殿(イエス)として、神様のみ旨を継承することのできる基盤を固められるようになっていたのである。

一方、サタンは、如何なる手段を使ってでも、神様の責任分担摂理を破壊しようとしていたため、様々な方法で、不信仰と不従順の種を探し出して、イスラエル民族に侵入しようとしていた。そのため、神様は、怨讐サタンに仕えようとする民がいれば、罰してでも悟らせるようにしながら、できる限りの事をして、イスラエル民族を保護してこられたのである。

しかし、そのような神様の心情を知り、切なく思う者は、次第に、その痕跡さえも探し出すことが難しくなってきた。それまでに、神殿を汚す行動が、何度あっただろうか。その神殿は、神様のために建てられたのであり、神様は、その神殿によって、み旨成就の基盤が完成したことを示し、み旨を始められたのである。しかし、サタンは、気勢をあげて堂々と、神様のみ旨を破壊していった。そのような中でも、神様は、イスラエル民族を放棄することができなかった。何故なら、放棄すれば、サタンは勝ち、神様が負けるという、非原理的な結末を迎えることになるからである。そのようになれば、この天宙の全てが、死の苦しみを覚えることになり、神様は、それを防ぐことができなくなるのである。従って、どのようにしてでも、み旨を成就しなければならなかった。それが、神様の責任であるため、神様は、預言者たちを立て、民族が連帯して、み旨を果たすことができるよう、神殿のみ旨を維持してこられたのである。そのみ旨の目的は、イエスであった。

その次は、イスラエル民族が、イエスと一つになることによって、第二のイエスのような存在を繁殖させることが目的であった。その基盤ができるかどうかは、イスラエル民族の行動にかかっていた。そのような状況の中で、神様は、どれほどもどかしい心情であっただろうか。

それゆえ、神様は、神殿を守らせ、活動を継続させながら、メシアを送って、み旨を成就させるという最高の目的を、預言者を通してイスラエル民族に伝え、神様のみ旨を信奉することができるように刺激されたのである。このようにして、イスラエル民族に希望を持たせようとされたが、イスラエル民族が積極的にみ旨を支えることができず、メシアを送る時期が千年以上も延長されたのである。

イスラエル民族は、メシアを送るという約束を期待していたが、忍耐することを知らず、また、神様のみ旨を実践することも忘れ、自分の望みだけを考えていた。それ自体が、堕落の血を受け継いだ反逆の民族だと言わざるを得ない。しかし、神様は忍耐され、メシアを送る前に、まず、メシアのみ旨を全て信奉することができるように、その準備をするためのエリヤを送ると約束し、彼らに希望を与えられたのである。こうして、イスラエル民族は、メシアの降臨だけが望みとなった。それゆえ、神殿を中心として、メシアを迎える準備をしながら、降臨を待っていたのである。

神様が、イスラエル民族と一つになり、み旨成就の基盤を築いて、メシアをこの世に送り、彼らの望みを叶えたならば、これは、神様ご自身にとっても、目的を果たすことができるという希望になったのである。それゆえ、神様がメシアを送られたならば、イスラエル民族は、メシアを自分の生命のように貴く思い、メシアの身辺を警護しながら、神殿の理想を実践すべき立場に立っていた。しかし、このみ旨を知る者は、何人いただろうか。神様は希望を持って、神様の責任分担摂理の基盤の上に、メシアであるイエスを送られた。イエスは、神様の責任分担摂理期間を終わらせ、次の摂理の責任を負うために来られたのである。

イエスは、第二アダムである。コリント人への第一の手紙15章45節には、「聖書に『最初の人アダムは生きたものとなった』と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった」と記されており、また、ローマ人への手紙5章14節には、「アダムは、きたるべき者の型である」と記されている。これらの聖句を見ても、イエスが第二アダムであるということが分かる。アダムとエバが堕落したため、原理通りに、第二アダムであるイエスと、エバの聖霊が責任を果たしてこそ、神様のみ旨を成就することができるのである。


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