5 愛と堕落
5-1 夜の女神の葛藤
夜の神と夜の女神は、双子のような関係であり、また、永遠の夫婦となる関係でもあります。しかし、夜の神の最初の相手は、図1.12のように昼の女神でした。夜の神にとって、これは法則であり必然でした。ただし、ここでは、実の世界を基準として論じています。何故なら、私たちのいる世界が、実の世界だからです。虚の世界では、図1.12の点線のように、実の世界と正反対のことが起こっていました。
図1.12に同じ
次は、図1.13.2のような展開となりました。つまり、夜の神にとって、夜の女神は二番目の相手となりました。これも、夜の神にとっては、法則であり必然でした。
図1.13.2に同じ
しかし、結局、実の世界では、図1.22のように、夜の神と昼の女神によって、霊界と宇宙が創造されました。
図1.22に同じ
このように、夜の神には、二神の女性がいました。これを図で表すと、図5.1のようになります。絶対性の性質を持つ夜の神は、法則に従って展開しただけですが、これに対して、相対性の性質を持つ夜の女神は、葛藤を抱かざるを得ませんでした。これは、あくまでも、私たちが住んでいる実の世界での話です。
図5.1
5-2 家族愛の必要性
「1-18 対消滅の意味」で述べましたが、永遠の関係となるべき夫婦は、図1.18に示したように、格差のある主従関係ではなく、同格のパートナーです。また、永遠の夫婦となるためには、双方が、それぞれの性質である絶対性と相対性を調節してバランスを取り、調和しなければなりません。何故なら、物質と反物質においても、双方の性質が正反対で、質量が同じ場合に、対消滅することができるからです。しかし、夫婦が葛藤している状態では、一つになることができません。何故なら、双方の主張が強くなり、バランスを取ろうとはしないためです。そのため、その葛藤を乗り越えることのできる愛が必要でした。
細線は一時的な関係 太線は永遠の関係
図1.18に同じ
好き嫌いや、気に入る、気に入らないという感情は、永遠ではありません。時間がたてば、関心さえ無くなってしまいます。また、恋心と性愛を司る神(エロース)は早くから存在していましたが、そのような恋愛感情も永遠ではありません。最初は良くても、気持ちが冷めて、心境が変われば、背信することもいとわなくなります。
葛藤を乗り越えて、永遠不変の愛となり得るのは、家族愛だけです。その家族愛には、夫婦の愛、親子の愛、きょうだいの愛があります。その中で、夜の神が最も求めていたものは、夫婦の愛でした。何故なら、夫婦の葛藤が、全ての問題の発端であるからです。
「4-12 地上生活」で既に論じたように、永遠の世界である神界や霊界では、家族愛を経験することができません。また、理論や法則を主張しても、永遠不変の愛による思いやりが無ければ、夜の女神が抱いたような葛藤を解消することはできません。そのため、家族愛の必要性を感じていた夜の神は、地球を創造せざるを得ませんでした。しかし、夜の神が地球の創造を決めたときには、将来、神界と霊界を通して、様々な問題が起こり得ることを予測していました。そして、神界と霊界で様々な問題が起これば、それらの問題を地上で再現し、そこで一つ一つ解決していかなければならないと考えていました。何故なら、地上で家族愛を学ぶことによって、それらの問題を解決することができると思ったからです。
ここで、中心的存在である神様が、対象的存在である人から学ぶということに、違和感を覚えるかも知れませんが、これは決しておかしな事ではありません。人も、対象的存在である子供を通して、様々な事を経験し、親として成長していきます。科学者も、実験を通して、様々な事実を知り、知識を高めていきます。つまり、中心的存在は、対象的存在を通して学ぶようになっています。
このような事情があって、地球を創造し、そこで人を繁殖させるのだと、他の存在に話せるでしょうか。夜の神は、そのような事情があることを、誰にも話しませんでした。これに関して、原理原本には、次のように記されています。「天使たちは、有形実体世界の創造を手伝っていた。神様が有形実体世界の創造を始められたのは、無形のご自身を、有形実体世界に展開し、繁殖させようとする目的があったからである。しかし、ルーシェルは、その神様の目的を知らなかった。そのため、天使たちも、それを知らなかったのである。こうして、その目的は、人々にも知られることなく、今まで隠されてきたのである。」
5-3 創造のリスク
愛を学ぶことは容易ではありませんでした。何故なら、憎しみを知らなければ、愛を知ることができないからです。さらに、家族愛を学ぶためには、苦境の中でも、共に生きていかなければなりませんでした。何故なら、そのような経験があってこそ、家族に対する感謝と信頼を深めていくことができるからです。現在の私たちの魂は、多くの転生を通し、そのような経験をしてきたので、家族愛がどのようなものであるのか、ある程度は知っています。しかし、初期のころは、そうではありませんでした。
また、幸福を感じるためには、不幸がどのようなものであるのかを知らなければなりません。何故なら、初めから恵まれていては、自分が幸福であるという実感がわかないからです。悲惨な状態にあって、少しでも恵みを得ることができたなら、そのほうがむしろ幸福を感じることができ、深く感謝をするようになると思います。
つまり、地上で最高の不幸を経験してこそ、最高の幸福を得ることができます。同様に、地上で最高の憎しみを経験してこそ、最高の愛を知ることができます。従って、天では、そのようにして、計画を立てざるを得ませんでした。このような仕組みを知れば、人の堕落は必然だったと理解することができます。
原理原本には、次のような内容があります。「もし、『善悪を知る木の実』を食べて堕落したということが事実だとするならば、大きな難問を抱えることになる。実際に、それが人々の間で大きな問題となっていた。その問題とは、『神様には能力があり、神様は全てをご存知であり、神様が居られない所は無いというのに、何故、人が堕落するように、そのようなものを置かれたのか』ということである。しかし結局、話の焦点となるのは、『神様は愛であると言うが、根本的に堕落するように創造しておきながら、善い行いをしなさいとは、どういう事なのか』ということである。悪の根源はサタンであり、その存在が天使長のルーシェル(これは韓国語由来の呼び方であり一般的にはルシファー)であったということは、誰もが知っていることである。では何故、神様は、天使長が逆賊のサタンとなり得るように創造されたのか。また何故、そのような天使長を主管することができなかったのか。これらの問題は、非常に重要である。」「人々は、『神様は何故、人を堕落させたのか』と言う。人は、完成する時まで、原理によって主管されるため、生心と良心に応じて、自由な生活をするようになっている。そのため、神様は、人の行動に直接干渉されないのである。」また、原理原本の最後には、「何故人が堕落しないように摂理されないのか」という内容あります。その中には、「神様は、人を愛しておられるために、高い完成基準を定めて、苦難の路程を歩ませるのである」と記されており、さらに、神様が人の堕落行為を知りながらも、人を堕落しないようにされなかったという、その理由が記されています。
以上のように、創造にはリスクが伴っていました。しかし、夜の神は、人に良心作用が働くようにされたため、いつかは善の方向に向かうようになると、信じるほかありませんでした。人類歴史は悲惨でしたが、それでも徐々に良くなって、今の生活があるのです。
夜の神の計画通り、人を通して、家族愛を知るようになりましたが、夜の神と夜の女神の間では、まだ夫婦の愛が完成していません。そのため、今もなお、夜の神と夜の女神の闘いは続いているのです。この問題が解決されれば、人類は皆家族として、過ごすことができるようになるかも知れません。
5-4 堕落の経緯
堕落とは、夜の神(天の父)から離れることです。では、最初の昼の神で、夜の神の弟であり、初代天使長でもあったルシファーは、何故、夜の神に背き、堕落したのでしょうか。ここでは、原理原本や原理講論には無い内容を明らかにしながら、堕落の経緯を説明したいと思います。
ルシファーは、夜の神を信用していました。また、夜の神も、ルシファーを信用していました。それゆえ、原理原本には、「アダムとエバが創造される前、天使長であるルーシェルは、神様の議論の相手として、神様の愛を直接受けていた」と記されています。そして、ルシファーには、天使たちを主管する権限が与えられていました。しかし、前述のように、夜の神は、人を創造する目的をルシファーに言いませんでした。それでも、ルシファーは、兄である夜の神の望みに応えようと、一生懸命に創造を手伝っていました。何故なら、ルシファーは、兄に褒められたかったからです。
ルシファーは、人が創造されたならば、自分が人を主管するものだと思っていました。何故なら、今まで被造物である天使たちを主管してきたので、被造物である人も、当然そのような位置にあると考えていたからです。しかし、ルシファーは、夜の神から「人を主管してはならない。人から愛を学びなさい」と言われました。これは、ルシファーにとって、自分が人よりも下の立場であると宣言されたも同然でした。そして、夜の神は、自分よりも、人を愛しているのだと思いました。この時に、ルシファーは、愛の減少感を覚えました。こうして、ルシファーは、努力してきた理由が分からなくなり、初めて夜の神を疑うようになりました。そして、今まで夜の神に愛されてきた分だけ、夜の神を恨むようになりました。
ルシファーは、夜の神に対して反乱を起こしました。これに対抗したのは、ミカエルでした。天使たちは、ルシファー側とミカエル側に分かれ、戦争をしました。その結果、ルシファー側が敗北しました。こうして、ルシファーは天使長を降ろされ、その代わりとして、ミカエルが二代目の天使長となりました。
ルシファーは、罰として、地球に送られることになりました。その時に、夜の神とミカエルも同行しました。夜の神が同行したのは、自分の責任だと思っていたからです。ミカエルが同行したのは、ルシファーが地球から逃げないように見張るためでした。天宙全体を活動の舞台としていたルシファーにとって、地球に送られるということは、牢獄に送られるようなものでした。夜の神は、ルシファーが地球で愛を知れば、本来の姿に戻ると、信じるほかありませんでした。
地球に送られたルシファーは、アダムの年下の従兄弟であるサマエルの肉体に入りました。サマエルは、エバの話相手でしたが、そのうちにエバを誘惑するようになりました。しかし、その後、積極的だったのは、サマエルではなく、むしろエバのほうでした。こうして、エバは、戒めを破ってしまいました。エバは、その次に、アダムのところに行きました。アダムは、エバが幼く見えたので、エバを一度拒否しましたが、エバが自分の年齢をごまかしたため、アダムはその嘘に騙されてしまいました。既に、「2-8 アダムとエバと天使長」で述べましたが、真のお父様が晩年に「エバは神の弟にまたがった。そしてアダムの年下の従兄弟が事態を逆さまにしてしまった」と言われたのは、このような経緯があったからです。ここで、再度確認しておきますが、「神の弟」および「アダムの年下の従兄弟」というのは、共に、サマエルとなったルシファーを意味しています。
5-5 悪の発生
前述の内容から、悪の発生は必然であったと理解することができます。つまり、善を知るためには、悪を経験しなければならないということです。ただし、今、地上で生きている人たちに、悪行を勧めているのではありません。人の人生は、天で計画されたものですから、それに従うのが最善の道です。もし前世や今世において、ある悪行を知るためのカリキュラムが完了していたならば、その後は二度と、同じ悪行を繰り返すべきではありません。それは、自分の魂(生心)がよく知っているはずです。
最初の昼の神であるルシファーが、夜の神と対立したのは、ルシファーが相対性の性質に傾いていたため、絶対性の性質を持つ夜の神の考え方が理解できなかったからです。ルシファーが相対性の性質を持つようになったのは、反陽子と陽電子が結びつきやすいように、昼の神であるルシファーが、夜の女神の影響を受けていたからです。図1.12をご参照ください。絶対性と相対性については、既に1-4で述べた通りです。
図1.12に同じ
夜の女神が持っている相対性の性質とは、端的に言えば、自分の立場と組織を維持しようとする性質です。ルシファーも、この性質を持っていました。そのため、自分より後に創造された人間が、自分よりも上の立場に立つということは、到底受け入れられませんでした。それに対して、夜の神は、全体を向上させるためであれば、今の立場や組織などは関係が無いと考えていました。
相対性の性質に傾いて、立場と組織を維持しようとすれば、いつかは支配層と被支配層が形成されるようになります。ルシファーは、既に、天使界を支配していたため、地球でも同じように、人々を支配しようと考えていました。しかし、夜の神が求めていたものは家族愛であり、その愛によって、人々を主管しようとしていました。家族間には、支配、被支配というものがありません。それは、地球規模であろうが、天宙規模であろうが、同じことです。このように、夜の神とルシファーは、考え方が全く異なっていました。そのため、夜の神は、ルシファーのやり方を完全に否定したのです。つまり、夜の神とルシファーの対立は必然であり、どうしても避けることができませんでした。
絶対性と相対性は、善悪の関係ではありません。両方とも必要な性質です。相対性が絶対性を超えなければ、相対性の中心的存在には、対象的存在を保護し、育成しようとする母性が表れます。これは支配ではありません。しかし、相対性が絶対性を超えれば、相対性の中心的存在に、対象的存在を支配しようとする傾向が表れます。こうして、組織を向上させることよりも、組織の支配そのものが目的となったとき、組織の下層で二次的に悪が発生するようになります。その意味は、組織の上層が、直接、構成員に悪行を働くのではなく、組織の管理者たちが、上層の指示に従い、構成員に対して、自由を抑圧したり、制裁したりするようになるということです。つまり、上層部が原因となり、管理者たちが悪行を働くということです。しかし、管理者たちには、悪行を働いているという自覚がありません。ただ、そうしなければならないと思っているからです。天使長ルシファーが、正にそのような管理者の長の立場でした。しかも、性質の異なる二神の主人、即ち、夜の神と夜の女神の両方に従っていたため、理不尽な思いを抱かざるを得ませんでした。ここで、既に、「二人の主人に仕える」という構図が描かれていました。
支配そのものが目的となった組織は、その組織体制を維持することが最優先となるため、組織内の矛盾は隠蔽され、事実と違うことが、事実として取り扱われるようになります。また、上層の方針に従わない構成員は、管理者によってしいたげられ、不当な扱いを受けるようになります。たとえ下層に様々な問題が生じても、管理者は上に報告せず、自分の立場を守ろうとします。そのため上層では、問題が発生していることさえ知らずにいます。
構成員の自由を抑圧して支配するということは、物理的にもあり得ません。何故なら、原子を構成している電子が、原子核に縛られ、移動できる自由を持っていなければ、原子同士が電子を共有して結合することも、電子が移動することによって電気が流れることも、あり得ないからです。しかし、逆に、電子が完全に自由になることもあり得ません。何故なら、そうなれば、電子配列に秩序が無くなるため、原子を構成することさえできなくなるからです。
つまり、絶対性と相対性は、バランスを取ることが重要であり、そのバランスが崩れたときに、問題が生じるということになります。ルシファーは、夜の神が求めていた愛の理想を知らなかったために、相対性の性質に傾いていたのです。
5-6 命の木と善悪を知る木
写真5.6.1と写真5.6.2を見てください。メソポタミア地方のレリーフ(粘土板)には、命の木(生命の樹)が描かれていますが、どれも構図が似ています。
写真5.6.1 シュメールの生命の樹
写真5.6.2 アッシリアの生命の樹
旧約聖書は、紀元前1500年から紀元前400年の間に書かれたとされていますが、メソポタミア文明は、それよりはるか前で、現在確認されている最古の遺跡は、紀元前5500年頃のものとされています。もし、創世記に出てくる命の木が、メソポタミアのレリーフに由来していたとしたらどうでしょうか。このようなレリーフを見て、聖書に命の木と記録したのではないでしょうか。
写真5.6.3は、電子顕微鏡で見たDNAです。この形は、命の木と似ています。従って、命の木とは、DNAのことであると考えられます。さらに、原理原本には、「命の木はアダム、善悪を知る木はエバを表している」と記されていますので、命の木はアダムのDNAを表し、善悪を知る木はエバのDNAを表していると考えられます。
写真5.6.3 電子顕微鏡で見たDNA
では何故、エバのDNAを、善悪を知る木と言ったのでしょうか。それは、二人の主人に仕えるようになる可能性があったからです。命の木は、一人の主人、即ち、夜の神(天の父)にのみ仕える完成したアダムのDNAを表していました。そのため、命の木は、堕落したアダムではなく、イエス様を意味するようになりました。それゆえ、前述の原理原本の内容の後には、「命の木とは、第二アダムであるイエスを表すもの」と書かれています。イエス様は、エバを復帰しなければなりませんでしたが、それができなかったため、その使命は、第三アダムである再臨主が果たすことになりました。
私たちは、よく血統という言葉を使いますが、血統の違いというのは、遺伝子情報(DNAの塩基配列)の違いであると言うことができます。この遺伝子情報は、心の変化によっても書き換えられるということが分かっていますので、原理原本で述べられているように、信仰によって血を清めることができるということになります。
夜の女神側の勢力は、力では、夜の神側の勢力にかなわないことを知っています。そのため、地上では、思想や教育を通して、或いは、情報操作(言論や映像などによるプロパガンダ)によって、人々の心をコントロールして、遺伝子情報を書き換え、偽りを真実であるかのように思わせて、夜の神側の勢力を窮地に追い込もうとします。ただし、ルシファー自身が、そのような事をするとは考えられません。それは、聖書で、神様(夜の神)とサタン(ルシファー)とのやり取り、或いは、イエス様とサタンとのやり取りを見れば分かると思います。あくまでもルシファーは、論理的に攻めてきます。それは、「2.5 昼の神」で述べたように、ルシファーが絶対性の対象的存在だからです。それゆえ、原理原本には、次のように記されています。「サタンは、人が神様に従って原理的な立場に立てば、仕方なく人から離れるというのが事実である。サタンも、原理には屈服するのである。」
5-7 堕落と復帰の意味
堕落とは、夜の神(天の父)から離れ、み旨と無関係になったことを言います。逆に、堕落の状態から復帰されるということは、夜の神の懐に戻り、み旨を歩むようになるということです。
ここで、み旨を歩むということは、一人一人が自分の魂(生心)の導き、即ち、良心に従って、あらかじめ天で計画されていた地上での路程を歩むということです。新約時代の信仰である信義の段階では、指導者に従えばよかったのですが、成約時代からは、一人一人が自分の良心に従って、方向性を定めなければなりません。それゆえに、真のお父様は、良心宣言をされたと思います。その良心宣言とは、次のような内容です。「良心は父母に優る。良心は先生(真のお父様)に優る。良心は神様に優る。」このように、最も従うべきなのは、良心であると言われました。
従って、一人一人が霊性を高めて、良心のもとである自分の魂に問いかけなければなりません。何故なら、自分の歩むべき路程は、自分の魂が知っているからです。これに関して、原理原本には、次のように記されています。「人は誰でも、外界と心理を認識することができる。この心理は、心理核体の附体であるため、心理が心理核体の完全対象となれば、霊人と通じるようになる。このようになった者は、心理核体と心理が、全く異なる格であることを感じながら、霊人と授受(交信)することができるようになる。そのため、直感として、霊人から様々な知識が伝えられてくることを感じるのである。このようになれば、自分の要求に対して、霊人が答えるということを体験することができる。」
5-8 原罪の意味
私たちが学んだ原罪というのは、アウグスティヌスの解釈が基本となっています。つまり、原罪というのは、アダムから遺伝された罪であり、それは親から子へと、代々引き継がれてきたものであるということです。しかし、この原罪という概念自体を、ユダヤ教では多数派が否定しており、また、キリスト教でも普遍的なものとして受け入れているわけではありません。さらに、原理原本には、原罪という言葉が一つも無く、血は信仰によって清められるとしています。
しかし、真のお父様の後のみ言には、原罪という言葉が出てきます。ただし、この原罪の意味は、人の霊人体が未完成であるということであり、アウグスティヌスの解釈とは異なります。原理原本には、この事について、次のように記されています。「アダムに注入しておいた神様の霊、つまり、生心を中心とする霊人体の中で、神様から与えられた生霊体は、罪を犯したアダムの体にいることができないため、神様が取り上げられた。」このように、アダムの堕落から、人は生霊体を授かることができず、霊人体を完成させることができなくなりました。そのため、人の霊は、魂の故郷である神界の9次元に帰ることができず、再臨主によって生霊体を授かる時まで、転生を繰り返すほかありませんでした。
ところで、真のお父様は、血統という言葉を強調されました。それを聞いた人たちは、その血統という言葉と、アウグスティヌスの説いた原罪とを、結びつけてしまいました。真のお父様が言われた血統とは、神様側の人なのか、サタン側の人なのかという、人の所属を意味します。原理原本では、この所属が強調されています。私たちは、「神様の血統」という表現をよく使いますが、それは、原理原本では「神様の愛する血統」だと表現されています。その血統は、摂理的な女性たちの死を超えた信仰によって、守られてきたものです。
もし、アウグスティヌスの説いた原罪の解釈を信じるならば、イエス様の先祖であるタマル、ラハブ、ルツ、バテシバなどの聖書の記録を調べてみてください。恐らく、メシアの血統に対して、疑いを持たざるを得なくなると思います。また、原理原本には、「神様は、サタンの愛する偶像商のテラから、その息子であるアブラハムを奪い取ったのである」とあります。このように、肉体の血統だけを見れば、摂理的な人物の血統は、純粋であるとは言えません。結論を言えば、遺伝子情報は、心の変化でも書き換えられることが分かっていますので、アウグスティヌスの説いた原罪の解釈を基準として、原罪の有無を論じることには、何の意味もありません。
いずれにしても、私たちは、肉体を失い、永遠の世界に行くことになります。それなら、肉体の原罪を論じることに、何の意味があるでしょうか。私たちにとって重要なことは、私たちは既に、真のお父様によって、生霊体を授かっているという事実を知ることです。








