2 最初の存在が生命の起源

2-1 唯心論と唯物論

真理の根本体、即ち、神様は、何故、我々に生命を与えられたのか。この問題を避けて通ることはできない。つまり、それを解決することが最も重要である。そのためには、まず、結果である被造世界を通して、その原因が何であるかを考えて見なければならない。

実際に、その原因を知ろうとすれば、唯心論的な見地と唯物論的な見地の両方を調べざるを得ないが、それぞれ目指しているところが一つなのではなく、分岐しているのである。つまり、唯心論としては、神様を立てざるを得ず、唯物論としては、物質を立てざるを得ない。それゆえ、宇宙は、創造によるものなのか、或いは進化によるものなのか、ということが問題となってくる。そのため、生命に対する根本的な認識においても、相違が生じているのである。

従って、生命の誕生について知ることは重要である。では、生物が生まれるためには、何が必要であるのか。まず、太陽(光)、空気、水、そして、体などを構成することのできる物質が必要である。しかし、それらは、如何にして生じたのか。また、生物の個体が完成するまでには、必ず、蘇生から長成、さらに、長成から完成までの一貫した過程を通過しなければならないが、そこには時間の流れ、つまり、進化的な法則の軌道が見られる。実際に、このような進化の法則があるとしても、生物を構成しようとする作用、また、進化する方向に動かそうとする力は、どこから始まるのか。さらに、生命を維持するための要素、つまり、光、空気、水、土などは、如何にして保証されるのか。

もし、進化の法則によって、生物が進化しながら、外的な諸要素までも作られていくと、進化論者が主張しても、我々は、そのようにはなっていないことを、すぐに理解することができる。つまり、進化するための既存の環境は、如何にして作られたのかということである。その環境が、進化するための前提条件であることを、誰が否定できるであろうか。従って、生物はもちろん、全てのものが存在するためには、根本的に、共通の必要条件である環境を創造した最初の存在が、絶対になければならないのである。

また、生物が生まれるために必要な共通の条件は、理想の形に生まれることができるという保証、成長するために必要な要素の保証、その後においても生きていくことのできる不変の要素の保証などである。つまり、これらを保証する絶対的な存在が、前提となっているのである。

上で述べたことが理解できたとしても、生物の生存過程においては、変化があり得るため、それが進化の過程であるかのように見えることがある。しかし、それは、蘇生から長成を経て完成するという過程を、部分的に見ているに過ぎないのである。

生物や物体を創造するためには、まず、目的物(生物や物体)の根本といえる絶対的な共通単位の力と要素が必要になる。それを準備すること自体が、創造と言えるのである。それゆえ、天宙に存在する小から大までの全てにおいて、創造の妙味を無数に発見することができる。これこそが、原理原則に従って、絶対なる理想形に向かって動いているということの現れなのである。このように、全天宙は、神様の創造理想を成就させるために動いている。つまり、神様は、全天宙を主管されているのである。


2-2 人は有形実体世界の中心

神様のみこころは、無形の理想世界、即ち、本境世界の影として、実体の万物万象の世界を創造し、この二つの世界を一つにして主管することである。このような理想を持って、この天宙を創造されたのには理由がある。それは、神様と天宙を同一形態にするためである。このようにして、相対的関係において成立する原理の形態を表現しようとされたのが、万物の創造である。

神様は、無形の存在として、天の世界を主管すると同時に、有形の生物に対しては、生命の根本でもあるため、有形実体世界までも主管しなければならない。神様が、ご自身に似せて人を創造され、人に似せて万物を創造されたのは、つまり、無形の神様のみこころによって人が動き、人が万物を主管するようにされたということである。この有形実体世界の中心は人であるため、人だけを主管すれば、神様は有形実体世界を主管することができる。このように、神様は、ご自身の代わりに人を立て、有形実体世界の主管者とされたのである。

人は、その格や姿が、神様と同様であるため、有形実体世界の主管者として立つことができる。そのため、人は、万物の主人格として、万物が持っている要素の完成格と言うに充分な要素をもって創造された。


2-3 人は神様と万物の中間媒体

人は、物質的な肉身のほかに、万物には無い生心を持っている。この生心によって、良心が作用し、永遠に善に向かおうとするのである。そして、この生心の成長に伴って、霊体が完成し、それが土台となって、生命体と生霊せいれい体が完成すれば、直接、神様の指示に従うようになっている。ここでは、霊体、生命体、生霊体を合わせて、霊人体と呼ぶことにする。

また、人の肉身は、肉心と肉体から成っており、肉体は、肉心の目的を果たそうとする。この性質は、動物的な本能である。この本能は、肉身の行動によって、生存の知覚、保護の知覚、繁殖の知覚などに区分される。この本能が、肉身を維持しているのである。

人の霊人と肉身の構成

このように、人は、神様のような永遠の要素、即ち、霊人を持ち、さらに、能力を発揮することのできる知性を持っているが、それとは対照的に、物質的な面では、万物の要素も持ち合わせているため、神様と万物の中間媒体としての役割を果たせるようになっている。それゆえ、人は、万物の中心となり得るのである。


2-4 人に生心が与えられた理由

生命の根本は、神様が注入されたものである。その生命を維持するためには、有形体の要素である土や水で作られた肉体が、無形である光を受け、空気を呼吸することによって、十分な授受作用(存続するための力を生み出す作用)を持続しなければならない。

この呼吸は、栄養素の供給を助けている。つまり、呼吸は血液をきれいにし、その血液によって、食べ物から摂取した栄養素が体に供給されているのである。この呼吸によって、体に酸素と栄養素が十分に供給され、授受作用が維持されることにより、生命が保障され続けるのである。

このように生命が保障された肉身の上には、神様によって与えられた生心がある。この生心の要求通りに、肉身が行動してこそ、生存する目的に向かって進んでいくことができる。この生心は、神様の一部として繁殖したもので、肉身を通して成長するようになっている。そして、この生心が成長すれば、それに伴って、霊体が成長して完成し、さらに、生命体が成長するようになる。こうして、生命体が完成すれば、神様は、その人に、無形世界の神格と同様の資格を持つ生霊体を与えられる。これが、生心を人に与えられた根本目的である。


2-5 肉身生活は霊人を成長させるための基礎

上述の通り、肉身は、生心に従うことが原則である。もし、肉心の要求だけに従って行動すれば、生心の成長を妨げると同時に、霊人の成長も妨げることになる。このように、成長を妨げる原因が生じたのは、人が堕落したため(神様から離れたため)である。

従って、肉身生活を通し、霊人を成長させなければならない。肉身が生心の要求通りに行動すれば、霊人は美形となり、自由となる。しかし、肉身が生心に反して行動すれば、霊人に傷が付き、不自由な霊人となる。従って、人は、肉身を失う前に、霊人に充分な要素を与えなければならない。これが、肉身生活の重要な目的である。人々が、この目的を果たすためには、この堕落した世界に、霊人を成長させることのできる道を開かなければならない。

人にとって、肉身生活の期間というのは、野菜畑にいる青虫の時期のようなものである。この青虫の時期に、充分な栄養を摂ることができれば、よく成長し、完全な蝶となって、自由に飛び回り、花の香りと甘い蜜を楽しむことができる。しかし、この時期に、栄養を充分に摂ることができなければ、完全な蝶とはなれず、本来の目的を果たせなくなる。我々が、肉身生活の期間に、生心の要求通りに活動すれば、青虫の時期に栄養をよく摂った蝶のように、我々の霊人は美形となり、自由となって、無限なる理想世界で活動できるようになるのである。

従って、人は、肉身生活の期間に、生心の要求通りに努力しなければならない。このように、生心が肉身を主管するということは、基本的な原理となっているのである。神様は、我々の肉身を霊人の土台として創造し、ご自身の理想通りに繁殖させようとされた。従って、我々は、肉身生活の期間に、生心が願う通りの生活をすることによって、神様が人間を創造された本来の目的を果たし、天宙の理想を実現しなければならない。


2-6 万物は慰労と刺激の対象

人は、万物の中心として創造され、万物は、人を基本として創造された。人は、そのような万物から刺激を受けるようになっている。また、万物を見て、慰労され、幸福を感じることもできる。

人と万物は、互いに助け合いながら、共存できるようになっている。例えば、植物は、我々の肉身に必要な酸素を出し、人は、植物に必要な二酸化炭素を出している。このように、互いに必要な要素を授受しているのである。この合理的な事実から、神様が、ある存在を創造された時には、その対象となり得る存在が、既に確定されていたということが分かるのである。

また、植物と同様に、動物や昆虫なども、我々人間と共存することのできる理想の形態を持っている。人間は、それらからも、慰労と刺激を受けることができるように創造されているのである。従って、我々人間が堕落しなかったならば、生活の中で万物を見ながら、深い興味を覚え、幸福を実感できるようになっていた。このように、全ての万物は、本来、慰労と刺激の対象なのである。

しかし、我々人間は堕落したため、万物が人間の対象となっていることをよく理解できず、また、万物の慰労と刺激をよく感じ取ることのできない存在となってしまった。そのため、人間は、万物に対する本来の役割を果たしていないのである。さらに、万物の価値や保護についても分からず、万物が創造された根本的な意味も分からないため、万物は、その本来の役割を果たすことができなくなってしまったのである。


2-7 人間の堕落は万物と天の堕落

人は、無知で悟りが無ければ、堕落した生活(神様から離れた無分別な生活)をするようになる。全天宙は、人を助けようと動いているのであり、人は、万物によって、天の理想を実現しなければならないが、たとえ、その理想が、普遍的で最高のものであったとしても、人が堕落した生活をしていれば、その理想を実現することができないのである。それゆえ、堕落した生活をするということは、非常に恐ろしいことである。

人間は、堕落によって、天の理想的な対象となることができず、万物は、本来の価値を現すことができなくなってしまった。人間の堕落は、万物の堕落であり、天の堕落でもある。つまり、人間は、堕落を招いた中心的存在となったのである。

このような人間の堕落が、全天宙の嘆息たんそくの原因となった。それゆえ、ローマ人への手紙8章19節から27節にも、万物の嘆息、聖徒の嘆息、天の嘆息が、人間の堕落によって始まったと記されているのである。もし、人間が堕落しなかったならば、天宙は全てが理想のかたちとなり、人間は肉身を持っている時から、幸福な生活を始めることができたのである。しかし、堕落によって、人間は自由を失い、拘束された生活をするようになった。それが、今の我々の生活である。


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