11. 「性相と形状」という思想はあまりにも大雑把

2024.09.19

例えば、「会社の人たちは、管理監督者と従業員に分けられる」と言われたら、どう思いますか。「大雑把に分けるとそうだ」と思いませんか。正に「性相と形状」という思想は、そのように大雑把なものです。大雑把であるということは、中身がよく分かっていないということです。

原理講論の「神の二性性相」には、次のように記されています。

「存在するものはすべて、その外形と内性とを備えている。そして、その見えるところの外形は、見ることのできない内性が、そのごとくに現れたものである。したがって、内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。そこで、前者を性相といい、後者を形状と名づける。」

つまり、見えないものが性相で、見えるものが形状だと言っています。ところで、見える領域は、誰でも同じだと言えるでしょうか。厳密には、人によって違います。これに関して、原理原本には、次のように記されています。

「人は、何らかの基準をもって有無を決定しているが、その基準は、人によって異なるのである。しかし、有無を決定した本人にとっては、その決定が正しいと言える。そのため、自分で物事を考えず、他者を気にするならば、どのように物事を判断すべきなのか分からなくなる。つまり、有無の基準は、無限有と無限無の中間にあり、絶対的なものとしては定められていないのである。」(原理原論7.2 P52参照)

このように、「性相と形状」の境界線は、絶対的ではなく、曖昧だということです。さらに、原理講論の「神の二性性相」には、次のように記されています。

「これに対する例として、人間について調べてみることにしよう。人間は体という外形と心という内性とからできている。そして、見える体は見えないその心に似ているのである。すなわち、心があるかたちをもっているので、その心に似ている体も、あるかたちをもつようになるのである。観相や手相など、外貌から、見えないその心や運命を判断することができるという根拠もここにある。それゆえ、心を性相といい、体を形状と称するのである。」

このように、人間の「性相と形状」は「心と体」だと言っています。そして、上述したことを適用すれば、「心と体」の境界線は、絶対的ではなく、曖昧だということになります。「そんな馬鹿な」と思うかも知れませんが、それは、人間を「心と体」というように、大雑把に、二元的に考えているからです。端的に言えば、人間は、「心と体」という二元的な構造になっているのではなく、もっと多元的な構造をしています。

では、心とは何でしょうか。原理講論の「生心と肉心との関係から見た人間の心」には、次のように記されています。

「生心と肉心との関係は、性相と形状との関係と同じく、それらが神を中心として授受作用をして合性一体化すれば、霊人体と肉身を合性一体化させて、創造目的を指向させる一つの作用体をつくる。これが正に人間の心である。」

このように、原理講論では、「心とは、生心と肉心が合性一体化したもの」だと言っています。でも、人間の心というのは、そのような二元的な構造になっているのではなく、もっと多元的な構造をしています。

以上の事を詳しく知りたい方は、天宙統一思想の「4 有形世界と無形世界」をご覧ください。「心と体」が、多元的な構造になっていることが分かります。つまり、各次元に「心と体」のような「エネルギー体と心的要素」があるということです。それは、「心と体」という関係が、縦的でもあり、横的でもあるということを示しています。

このような事を知ると、「陽陰の二性は性形の二性の属性」だとは言えなくなります。何故なら、冒頭の文章を引用すれば、「会社の人たちは、管理監督者と従業員に分けられると同時に、男性と女性にも分けられる」ということが分かり、必ずしも、縦的な属性云々の話にはならないということに気が付くからです。

端的に言えば、原理講論では、「心と体」という関係を、縦的にしか見ていません。また、原理講論には、次元という概念もありません。

ところで、次元の境界線は、チャンネルを切り替えるように明確になっているのではなく、虹の色と色の境界がグラデーションになっているように曖昧です。また、同じ次元でも、波長が皆同じなのではありません。虹の各色の波長領域に、ある程度の幅があるように、各次元の波長領域には、ある程度の幅があります。それは、人間の心は皆同じではないということです。

「心と体」に関しては、原理原本にも詳しく記されています。原理原論の「31 核体と附体」(P275)をご覧ください。このような内容は、原理講論にはありません。