05. 不完全な「主体と対象」という概念

2024.08.26

原理講論の「愛と美」には、次のように記されています。

「神と人間について例をとれば、神は愛の主体であり、人間は美の対象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の対象である。被造世界においては、人間は愛の主体となり、万物世界は美の対象となるのである。しかし、主体と対象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。なぜかといえば、主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができるからである。」

上記の内容に「主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができる」とありますが、これを「原子」に当てはめることはできるでしょうか。つまり「原子核と電子とが互いに回転して原子となれば、原子核も電子の立場に、電子も原子核の立場に立つことができる」のか、ということです。それは、明らかに、あり得ません。従って、上記の内容は、普遍的な原理ではなく、信仰の理論だということになります。原理講論には、このような欠陥があるため、それによって、宗教と科学を統一することはできません。

では何故「主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができる」と書かざるを得なかったのでしょうか。それは、相対(あいたい)する二者のどちらかを主体にしなければならないという理論上の制約があったからです。つまり、相対(あいたい)する二者が同格の立場にあって、どちらも主体と定めることができない場合に、無理やり「主体と対象」の関係を適用させる必要があったからです。

例えば、酸素分子(O2)の場合はどうでしょうか。酸素原子2つのうち、どちらが主体となるでしょうか。それは決められないことです。このような場合に「一体となっているので、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立っている」と言えるでしょうか。たとえ、その理論を無理やり押し通したとしても、上述のような、原子核と電子の場合には、その理論は通用しません。

ここで明確にしておきたいことは、そもそも原理講論に書かれている「主体と対象」というのは、上下関係を表しているということです。つまり、上下関係を定めることが前提となっています。従って、相対(あいたい)する二者が同格であるという前提では、「主体と対象」の論理を展開することができません。ちなみに、一般的には「主体と対象」とはいわず「主体と客体」といいます。

原理原本には「主体」という表記は1カ所しかありません。それは「神様は全ての存在の主体」だと書かれている部分です。(原理原論21.5 P221参照)

原理原本では、相対(あいたい)する二者を「主体と対象」とはせず「中心と対象」としています。この「中心と対象」という表現は、原理原本においては、相対(あいたい)する二者が上下関係であっても、或いは同格の関係であっても適用されています。

原理講論でいう「主体と対象」の関係は、陽性と陰性にも適用されています。つまり、原理講論によれば、プラスとマイナスの場合は、プラスが主体だということになります。果たして、そう言えるでしょうか。

一般的に、電気はプラスからマイナスに流れるとしていますが、導体を流れる電子は、マイナスからプラスへと流れています。陽イオンと陰イオンにおいても、陽イオンが主体であるとは断定できません。でも皆さんの中には「原子核はプラスで、電子はマイナスなのだから、プラスが主体だ」と思う方がいるかも知れません。では、マイナスの反原子核の周りをプラスの陽電子が回っている反物質の場合はどうでしょうか。マイナスの反原子核が主体だということになります。反物質を知らない方は、調べてみてください。

結論を言いますと、陽性と陰性は「主体と対象」の関係ではなく同格です。従って、夫と妻は同格です。それがカップル(一対の存在)というものです。決して、上下関係ではありません。夫と妻が互いに調和してこそ夫婦です。では、原理講論の他の内容を見てみましょう。男性と女性が「主体と対象」だとする主張が、如実に表れています。

「では、人間に対する神の直接主管とは、具体的にどのようなことをいうのだろうか。神を中心として、アダムとエバが完成して合性一体化し、家庭的な四位基台を造成することによって、神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに、お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになるとき、これを神の直接主管という。」(「直接主管圏」より)

ここで注意しなければならないことは、文中に「アダム」と書かれているということです。ここで「アダム」と言えるのは、アダム、イエス、再臨主のみですが、本文では「男性」を「アダム」と表現しているようです。何故なら、本文の始めに「人間に対する神の直接主管」と書かれており、本文の内容そのものが、アダム、イエス、再臨主に限られたことではないからです。このように、アダム、イエス、再臨主と、他の男性を一緒くたにして、「男性は主体だ」と言っていることに問題があります。主体だといえるのは、夜の神様(天のお父様)が管理されていたアダム、イエス、再臨主のみです。他の男性は、昼の神様に管理されているため、主体ではありません。従って「神を中心としたアダムの意のままに」というのは、アダム、イエス、再臨主に限られるということです。しかし、教会では、そのような区別をせず、「男性は主体だ」としています。それは、陽性が主体だと言っているようなものです。でも、陽性と陰性は、上述しましたように同格です。

一方、原理原本には、上記の本文のような内容はありません。次の内容をご覧ください。

「神様は、創造原理の完成基準を超えた人を、直接主管しようとされた。」(原理原論32 P281参照)

「神様が人に対して要求されていることは、創造原理の完成基準を超えて、神様直接主管圏に入ることである。しかし、人々は、未だに、そこに入ることができず、間接主管圏(原理結果主管圏)にいるため、神様は人々を思い通りに主管することができない。」(原理原論32 P281参照)

このように、原理原本では「アダムとエバ」とはせず、「人」と表現しています。つまり、男女の区別をしていません。原理原本でいう「中心と対象」の関係では、相対(あいたい)する二者が同格の場合、「中心」というのは、単に「視点」を意味するものであり、原理講論でいう「主体」のように、「上の立場」であることを意味するものではありません。

皆さんは、夫婦が永遠に「主体と対象」という上下関係であることを望みますか。それとも、同格のカップルであることを望みますか。

最後に「男子は愛の主体であり、女子は美の対象である」というところに関してですが、それを次のようにすると、男女が同格になると思います。

「男性には、男性特有の愛と美があり、女性にも、女性特有の愛と美がある。」

原理講論がどのように書かれたのか。それについては、下記の動画をご覧ください。

原理講論について