善と悪
〇〇さんへ
先日お話しした、相対(あいたい)する相手や善悪をどのように捉えるかという問題について、何故、私が、そのような結論に至ったのかということを、ここで明かそうと思います。
「神々とメシア」(2016年12月)に、次のように書きました。
「絶対性と相対性がバランスをとるためには、同格の立場でのコミュニケーションが必要である。しかし、その前提となる"愛"が欠けていた。たとえ原理原則通りのことを主張しても、相手への思いやりが無ければ、相手はそれを受け入れてくれないのである。それで、夜の神は、愛を追求せざるを得なかった。その追求は、目的を果たそうとする夜の神にしかできなかった。ただし、愛の追求にはリスクがあった。愛を知るためには、その正反対の"憎しみ"を知らなければならなかったからである。」(5-1参照)
私はこの時、善と悪もこれと同様に、切り離せない関係にあることを知りました。さらに「天宙統一思想」(2021年9月)に、次のように書きました。
「善に見えるものの中に、義と不義があり、悪に見えるものの中にも、義と不義があります。このように捉えるのが、四元論的な考え方です。もし、二元論的に考えれば、『その人は普段の行いが悪いから不幸な目に遭うのだ』とか、『その人は普段の行いが良いから幸せなのだ』と、天の事情や計画があることを考えずに、地上の現象だけを見て、物事を善か悪かで捉えてしまいます。従って、二元論では、物事の本質を正しく捉えることができません。」(4-16参照)
「悪の発生は必然であったと理解することができます。つまり、善を知るためには、悪を経験しなければならないということです。」(5-5参照)
この時までは、善と悪について、以上のようにしか表現することができませんでした。ところが2022年4月、ある方の動画を観ていて、このような表現もあるのかと衝撃を受けました。それが、次の内容です。
「敵と味方、良い悪いでは、収まりきることができないのが真実、真理なのである。それを全て包括していく境地、敵でもあり味方でもあり、善でもあれば悪でもあり、全てがその中に内包されているのが愛であり、神であり、真理であり、宇宙の偉大さなのである。それに溶け込んでいったとき、本当の意味での安息、達観した境地、真の安らぎ、揺らがない絶対的な軸や安心感が確立されていく。ジャッジを超えていくこと。全てを包括していく。トータル的に裁かない多様性を持っていく。一旦は、それはそれで認識して受け止めていく包容力、多面性を深めていくことで、何か、よりスケールの大きいことを成していける。なので、一見不都合に思える事や、ネガティブに思えるような要素も、活かしようによっては、それもまた、全体性で見れば、役割を持っている。活かされる、活かせる方法があるはず。そういう意味で、無駄なものは何もない。」
この方は、明らかに、啓示を受けながら話をされていました。動画はこれだけではなく、結構あったのですが、実は、私もM氏も、この方の動画に励まされてきました。さらに、この方は、現在の私たちの役割についても予見していたのですが、当時の私は、それを想像することもできませんでした。さらに私が指摘されたことは「あなたは自分自身を過小評価している」ということでした。ちなみに、その方と私とは、全く縁がありません。ですが、天が私にメッセージを伝えようとされて、その方の動画を観るように、私を導かれたのだと思います。最近、その方の動画を、また観ようと思って探してみたのですが、もうありませんでした。
以上のような経過があり、「原理講論の認識法は善悪二元論」(2024年9月)というタイトルのブログの中で、次のように書きました。
「善悪二元論をどのように克服していけば良いのでしょうか。ここで知っていただきたい事は、善悪は自分が決めているということです。つまり、自分が悪を作り出しているということです。自分の意識から悪を消すためには、相手を悪だと思わないことです。そして、自分が善であるとも思わないでください。そうすれば、善悪という概念が消えていきます。ここで『善を消すのは間違いだろう』と思うかも知れませんが、善と悪はセットであり、どちらか一つを残すことはできません。悪が生じる前の世界を想像してみてください。そこには善という概念すらも無かったはずです。」
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