07. 原理講論の認識法は善悪二元論
2024.09.01
善悪二元論とは「世の中の事象を善と悪の二つに分類する事で世界を解釈する認識法」のことです。(ウィキペディア参照)
多くの宗教は、この善悪二元論に陥っており、これこそが、対立抗争の元凶になっています。それは統一教会も例外ではありません。原理講論の「総序」にある次の内容をご覧ください。
「しかし、悲しいかな、我々は、その究極において、善と悪とがそもそもいかなるものなのかという問題を解くことができずにいるのである。例えば、有神論と無神論とについて考えるとき、二つのうちいずれか一つを善と見なせば、他の一つは悪ということになるのであるが、我々はいまだどちらが正しいかということに対する絶対的な定説をもっていないのである。」
ここで「二つのうちいずれか一つを善と見なせば、他の一つは悪ということになる」と言っていますが、これこそが善悪二元論というものです。このような認識をもっているために、分裂が起きるのです。統一教会では、その名称の通り「統一」を謳(うた)っていますが、それは、善悪二元論に陥っている以上、不可能であるということになります。その事は、現在の状況を見ても明らかです。自分らの教派に属していない食口を蔑視することが、時々あるではありませんか。食口同士がこのように分裂していて、それを解決することができないのに、この世の問題をどうして解決することができるでしょうか。「宗教が無くなれば、戦争は無くなり、世界は平和になる」と考えている人たちは、意外に多いかも知れません。
宗教、教派によって分裂しているのなら、それを解決する方法は、一つしかありません。それは、一人一人が覚醒し、宗教依存を卒業することです。ここで注意しなければならないことは、「信教の自由」を主張して、宗教組織を守ろうとしている食口たちがいますが、宗教組織が無くても、信仰は自由にできます。むしろ、宗教組織に縛られないほうが、自由に真理を求めることができ、自由に信仰することができるようになると思います。
真のお父様は、次のように言われました。
「教会が一つから二つに分かれ、二つから四つに分かれ、このようにして三回だけでも分かれたら、神様は去っていきます。天理原則がそうなっています。だから、家庭的に集まります。恩恵のある人は、家庭的に集まります。教会に行きません。」(9-266 1960年6月5日)
「私は教会が好きではありません。教会時代は過ぎ去ったので、キリスト教も滅び、仏教も滅び、みな滅びていきます。」(28-6 1970年1月11日)
「今後、教会時代は過ぎ去っていきます。人類が願うのは、教会ではありません。教会は堕落圏内で、復帰の運命の道を行く際に必要なのであって、新たな時を迎えれば、教会時代は過ぎ去っていきます。」(28-6 1970年1月11日)
「統一教会を解体しなければなりません。私が、自分が解体してしまわなければなりません。」(589-149 2008年5月14日)
以上のみ言のように、真のお父様は、統一教会をずっと維持しようとは思っておられませんでした。また、宗教は、みな滅びていくとも言われました。それでも皆さんは、「信教の自由」を主張して、宗教組織を守ろうとするのですか。上述しましたように、宗教組織が無くても、信仰は自由にできます。そのために、真のお父様は、多くのみ言を残していかれたのではありませんか。
話を善悪二元論に戻します。ここで、さらに注意すべきことは、対峙する理論を、善悪に分けようとする、ということです。原理講論の総序では「有神論と無神論とについて考えるとき、二つのうちいずれか一つを善と見なせば、他の一つは悪ということになる」としていました。これは「正しいことを言っている自分は善であり、それと異なることを言っている相手は悪である」という認識をもっているということです。これは相手から見ると、立場は逆になります。従って、このような認識では、何も解決しないばかりか、かえって問題が大きくなっていく可能性があります。
さらに掘り下げるなら、有神論と無神論でいう「神」とはどのような存在であるのか、という定義がなければなりませんが、それさえも定まっていないというのが現状です。例えば、ある有神論者が「神様は全知全能であり、愛の根源だ」と言ったとします。これに対して、ある無神論者は「神様が存在するのなら、どうしてこんなに酷い世の中になったのか」と言うかも知れません。それは、その有神論者のいう神の定義を受け入れることができないからです。それでも、その有神論者が「神様は全知全能であり、愛の根源だ」と、盲信者のように主張し続けるのなら、何の進展もないでしょう。逆に「本当に神様は全知全能で、愛の根源なのだろうか」と疑問を持つようになれば、進展があると思います。これに関して、真のお父様は、次のように言われました。
「神様も深い愛の根源を知らない、という論理が展開するのです。」(祝福家庭15 1999年冬号)
このみ言については、下記の動画をご覧ください。
ところで、唯物思想は何故生まれたのでしょうか。これに関して、原理講論の「総序」には、次のように記されています。
「初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者たちが現れたとしても無理からぬことである。このようにして現れたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。」
上記の内容は、キリスト教の信者に神経を使って、事実をごまかしていると思います。唯物思想が生まれたのは、キリスト教の信者が、特にユダヤ教の信者を迫害し、仕事に就かせないなどして、彼らを苦しめていったからです。それで、迫害を受けたユダヤ教の信者たちは、「こんな無慈悲なキリスト教の神様など必要ない」として、神様を必要としない思想を作り上げました。それが唯物思想です。それゆえ「キリスト教社会は唯物思想の温床となったのである」と、「総序」の中で言っているのです。
このような事を知れば、本当に無神論が悪と言えるのか、分からなくなってしまいます。それゆえ「有神論と無神論とについて考えるとき、二つのうちいずれか一つを善と見なせば、他の一つは悪ということになるのであるが、我々はいまだどちらが正しいかということに対する絶対的な定説をもっていないのである」と、「総序」の中で言っているのだと思います。
結論を言えば、有神論と無神論を善悪に分けようとすること自体が間違っています。ただ、立場、視点、視野などが違うので、互いに異なった認識をしているだけです。
例えば、天動説と地動説に関してですが、もしかして皆さんは、天動説が間違っていると思っていませんか。天動説は、地上に視点をおいているのであり、地動説は、太陽を中心とする宇宙にまで視野を広げているということです。つまり、地動説のほうが、より本質を捉えているということになります。でも今では、その太陽でさえ、天の川銀河の中心を回っているということが明らかになっています。
約400年前、宗教裁判所は、ガリレオに対し、地球が運動しているという説を撤回するように命令しました。この宗教裁判所の判決が正しくなかったことは、今では誰にでも分かります。
善悪二元論に対して、何の疑いも持っていなかった方は、早く、その間違いに気が付いてください。
では、善悪二元論をどのように克服していけば良いのでしょうか。ここで知っていただきたい事は、善悪は自分が決めているということです。つまり、自分が悪を作り出しているということです。自分の意識から悪を消すためには、相手を悪だと思わないことです。そして、自分が善であるとも思わないでください。そうすれば、善悪という概念が消えていきます。ここで「善を消すのは間違いだろう」と思うかも知れませんが、善と悪はセットであり、どちらか一つを残すことはできません。悪が生じる前の世界を想像してみてください。そこには善という概念すらも無かったはずです。
差別や迫害の前では、善人も悪人に変わってしまいます。でも「慈悲の愛」の前では、悪人も悪人ではなくなります。何故なら、悪人扱いされないからです。
皆さんは、原理講論に書かれている「二つのうちいずれか一つを善と見なせば、他の一つは悪ということになる」という説を、まだ信じますか。