04. 【回顧録】原理原本の翻訳(3)原罪について
2026.06.19
今年の4月5日、天のある方からメッセージがありました。「信仰とは、うらみを取ること、解くこと。神を思い、親を思い、さるお方(真のお父様)を思うのは基本中の基本。もう長い歴史をかける必要はない。神を解放してやれ、さるお方を解放してやれ、自分自身を解放してやれ。」
また、前回の回顧録では、最初の部分しか書かなかったのですが、5月24日に受け取った、真のお父様のメッセージは、次のような内容でした。「次の回顧録、〇〇(私の名)、頼んだよ。先生の涙と孤独を解放してくれ。先生には、見えてるんだよ。次の回顧録、あせらなくても、急がなくても、いいんだよ。〇〇、先生の孤独も涙も、回顧録で解放してくれ。」
書くかどうか躊躇していた内容に触れようと思います。ですが、全てをあからさまにはできませんので、その点はお察しください。
私が原理原本を翻訳していたときに、最も違和感を覚えたのは、原罪という言葉が一つも見つからなかったことです。見落としたのかと思い、何度も確かめたのですが、結局、見つかりませんでした。
前回のブログにも書きましたが、原理原本を通して分かったことは、アダムの過ちによって、人間の霊人体が未完成のままになってしまったので、その霊人体を完成させるために、メシアが来られたということでした。これが、メシアによって無原罪になるということだと、そのときは思いました。
では何故、真のお父様は、原理原本に原罪という言葉を使われなかったのでしょうか。それは、アウグスティヌスの創作した原罪論が曖昧で、核心を突いたものではなかったからだと思います。ユダヤ教の多数派は、原罪を否定しているようです。キリスト教では様々な見解があり、原罪という言葉自体を避けることもあるようです。このように、アウグスティヌスの創作した原罪という概念は、宗教家の誰もが受け入れているのではありません。
ある食口は、「原理講論では原罪が説かれている。だから原理講論は、原罪の書かれていない原理原本よりも優れたものだ」と言いました。本当にそうでしょうか。では、原理講論を見てみましょう。
まず、原理講論の総序には、次のように記されています。
「イエスの十字架の代贖によって、明らかに救いを受けたと信じている人々であっても、有史以来、一人として、救い主の贖罪を必要とせずに天国へ行けるような罪のない子女を生むことができなかったという事実は、彼らが重生した以後においても、それ以前と同じく、原罪が、その子孫にそのまま遺伝されているという、有力な証拠とならざるを得ないのではなかろうか。」
このように、原理講論は、当然のごとく、原罪ありきで始まっています。つまり、原理講論は、アウグスティヌスの創作した原罪論を前提として書かれています。
次に、原理講論の堕落論には、次のように記されています。
「人間の原罪は、あくまで人間の祖先であるアダムから遺伝されてきたものである。」
「この原罪は、すべての罪の根となるのである。」
「人間も天使もみな淫行によって堕落した。」
「人間の祖先が天使と淫行を犯すことによって、すべての人間がサタンの血統より生まれるようになった。」
「淫行という罪の根が、絶えず人間の心の中から、我知らず発動してきた。」
「罪の根があくまでも淫行にある。」
ここで、気が付いて欲しい事があります。原理講論では、「原罪は罪の根、罪の根は淫行」としていますが、これは「原罪=淫行」と言っているようなものです。しかし、「淫行によって堕落した=原罪によって堕落した」とはなりません。また、原理講論では、「人間も天使もみな淫行によって堕落した」としていますが、これは、堕落の原因は淫行以外にはないと、断言しているようなものです。何が言いたいのかというと、原理講論の構文は、もっともらしく見えても、破綻しているということです。
原理講論の堕落論は、アウグスティヌスの創作した原罪論に、「淫行によって堕落した」という内容を追加したものです。しかも、「原罪=淫行」という結論に至るので、論理破綻しています。
もし、原罪が説かれていると言うのなら、どうして、真のお父様に、原罪が有るのか無いのかという論争が生じるのでしょうか? そうなるのは、原理講論を見ても、原罪の本質が分からないからです。
また、このようなことを論ずる場合には、まず、淫行とは何かということを、定義しておかなければなりません。しかし、原理講論に、そのような定義はありません。ちなみに、日本で、淫行とは、18歳未満の青少年に対し、みだらな性行為または性交類似行為を行うことをいいます。教会では、正妻以外との関係を淫行と言うのでしょうか? そうであるなら、ヤコブの家庭を、どのように説明しますか?
そのヤコブの子女は、次の通りです。ヤコブとレアとの子は、長男ルベン、次男シメオン、三男レビ、四男ユダ、九男イッサカル、十男ゼブルン、長女デナ。ヤコブとラケルの仕え女(つかえめ)ビルハとの子は、五男ダン、六男ナフタリ。ヤコブとレアの仕え女ジルパとの子は、七男ガド、八男アセル。ヤコブとラケルとの子は、十一男ヨセフ、十二男ベニヤミンです。
ヤコブの正妻は二人いました。レアとラケルです。しかし、ビルハとジルパは仕え女であって、正妻ではありません。原理講論では、ヤコブは、淫行を犯したということになっていますか? 原理講論では、正妻ではないビルハとジルパのことについては触れていません。何故なら、都合が悪いからです。
さらに、原理講論では、レアをサタン側の妻、ラケルを天の側の妻としています。しかし、ヤコブとレアの子ユダが、ダビデおよびイエス様の先祖になっています。では何故、天の側の妻であるラケルから、メシアの先祖が生まれなかったのですか?
これに関して、原理原本には、次のように書かれていました。
「ヤコブには、二人の妻、レアとラケルがいた。それには、どのような意味があるのかと言えば、み旨の中に、神様の二女性、即ち、ヤコブが望まなかったレア的な女性と、ヤコブが望んだラケル的な女性がいることを示されたのである。ラバンの思いを成したレアは、最初に堕落した根本のエバを表している。それゆえ、レアが、根本のエバの失ったものを取り戻すべき根本的な女性なのである。」(原理原論P211参照)
このように、原理原本では、レアをサタン側の妻だとはしていません。
また、原理原本には、次のように書かれていました。
「特にイエスの直系の先祖を知るときに、もし原理を知らなければ、誰もが、その血統に疑いを持ち、汚れた血統だと言うであろう。その血統は、み旨のための血統である。そして、その歴代の先祖に起こった出来事には原理が示されている。それらの出来事を通して、堕落した人類をイエスにまで導き、復帰しようとされたのである。イエスの先祖の血統は、純粋な血統ではなく、様々な女性たちが関わってきた。その代表的な女性は、タマル、ラハブ、ルツ、バテシバなどであるが、神様は、理由があって、このようにされたのである。人々をサタンの血統から本来の血統に復帰するためには、サタンに汚された原理を立て直す必要があった。そのため、サタンが神様から人を奪ったように、神様もサタンから人を奪って、その原理を立て直そうとされたのである。こうして、その女性たちが、汚れた女性のような立場で、従順、信仰、奉仕を成したときに、み旨が成就し、イエスの先祖になる資格が与えられるようになっていた。」(原理原論P117参照)
原理講論は、タマル、ラハブ、ルツ、バテシバのことに触れていません。
ある先輩家庭の方は、真のお父様は破廉恥(はれんち)な事をしたとして、メシアになりそこなったと主張していました。私は、その方に言いました。「では、イエス様の先祖について、説明してください」と。もちろん、タマル、ラハブ、ルツ、バテシバのことです。その方は神学を学ばれたので、その事を知らないはずがありません。それで、返ってきた答えは、こうでした。「そもそもイエスが実在した人物かどうかも分からない。そのような人物の先祖のことなど答えることはできない。」このように返信して、逃げるしかなかったのでしょう。
私は、ずっと以前から、その方の発言に怒り心頭でした。それに同意していた人たちも含めてです。今までの人生の中で、これほど悔しかった事はありませんでした。そのような状態のときに、真のお父様が来られ、「許してやりなさい」と言われました。それで、私は、心を落ち着かせることができました。
かなり前の事ですが、ある食口から、次のようなことを聞きました。「草創期の先生から、まだ原理講論を信じているのかと言われた」と。今なら、その意味を理解することができます。原理講論でいう原理は、草創期のものとは違います。もし、草創期の原理を、そのまま教理にすれば、伝道活動は進まなかったでしょう。だから、草創期の先輩方は、原理講論のような教理にしたのだと思います。そのお陰で、多くの食口たちが伝道されたではありませんか。私も、その中の一人です。しかし、その教理が、食口たちを誤った方向へ導き、メシアを、自分たちに都合の良い理想像に置き換えてしまいました。だから、その理想像と違うということが分かると、「真のお父様はメシアになりそこなった」と主張する食口まで現れるようになったのです。これは、イエス様のときもそうでした。当時、メシアを待ち望んでいた人たちは、イエス様を見て、どう思ったのかということです。自分たちの思い描いていたメシアの理想像とは違うので、イエス様につまずいたのではありませんか?
2006年10月30日、原理講論について、次のような発表がありました。「原理講論は成約のみ言ではなくて、旧約と新約のみ言を全て整理したものです。」下記の動画をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=KO4HBWwAPvg
つまり、原理講論は、聖書の新解釈であり、クリスチャンに向けたものでした。それをご存じだった真のお父様は、原理講論に、アウグスティヌスの創作した原罪論の内容が入っていても、あえて黙認されていたのだと思います。それで、原理講論について、次のように言われたのだと思います。
「間違っていたとしても、それを知らないのではありません。間違っているところ何か所かを、そのままにしておかなければならないのです。すべてを教えてあげるわけにはいかないのです。」(ファミリー1995年2月号P63)
ある食口は、次のように言いました。「原理原本は蘇生級、原理解説は長成級、原理講論は完成級だ」と。その考えは間違っています。それは、上記の動画を見ても分かることです。成約のみ言には、タマルの話など、血統復帰のことが書かれています。原理原本には、その内容があります。原理原本は、クリスチャン向けに書かれた原理講論を卒業しなければ、理解することができません。
私が数週間前に受けた啓示は、「原理講論に書かれていることが、いかに幼子に話す方便のような内容だったのかを示せ」ということでした。それで今回、このような回顧録になりました。
皆さんは、もう目覚めなければなりません。結局は、みんな霊人になるのに、原罪を論じることに、何の意味があるでしょうか? 親であられる神様が、子女である霊人を、原罪云々と言って、区別されると思いますか? もう、原罪が有るとか無いとかという旧約・新約レベルの話はやめましょう。それよりも、誰にも事情を理解されずに天にいかれた、真のお父様の孤独な心情を探し求めてください。